俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

オウンゴール

2010-06-01 14:29:22 | Weblog
 5月30日のサッカーで日本代表は2つのオウンゴールでイギリス代表に負けた。ファインセーブを繰り返していたゴールキーパーの川島選手もたった2度の味方による攻撃にはお手上げだった。
 当たり前のことだがゴールキーパーは敵の動きに注目する。敵の選手がどこにいて、どんな攻撃を仕掛けようとしているのかということに気を配る。しかし味方による攻撃はノーマークだ。
 社会生活においても同じだ。怖いのは敵の攻撃よりも味方の裏切りだ。八百長試合が成立するのも常に負けるための八百長だ。勝つという八百長はあり得ない。
 獅子身中の虫という言葉がある。百獣の王ライオンでさえ体の中の虫に対処することはできず殺されてしまう。たかが虫でも体内に入ればライオンを倒すことができる。
 釣った魚には餌をやらないという言葉もある。魚ならそれで良いかも知れないが相手が人間なら事情は違う。家庭であれ企業であれ政党であれ一番危険なのは内部の造反者だ。内部から裏切り者を出さないように、あらゆる組織はもっと構成員の処遇に気を使うべきだろう。

10,000年後

2010-06-01 14:14:41 | Weblog
 波打ち際で波と戯れながら考えた。10,000年後も同じように波は打ち寄せ、潮は干満を繰り返しているだろうと。その時、人類は存在しているだろうか。多分既に滅んでいるだろう。それなら人類とは地球にとって何だったのだろうか。恐竜のように我が物顔で地球の支配者として君臨して、地球環境を散々破壊した上で自らを滅ぼした愚かな動物だったということだろう。
 もしそこに知的生命体がいればこう書き記すだろう。「人類とは進歩と進化のバランスが崩れた動物だった」と。
 本来、動物はその能力に応じた道具しか使わない。木の枝とか石ころなどを道具にする。人類だけが個々の能力を超えた道具を使う。テレビだろうが携帯電話だろうが、そのメカニズムが分からないまま平気で道具として使う。
 機械文明の進歩は人類の進化の速度を上回っている。人類の進化は文明の進歩に全然追い付けていない。大量殺戮兵器を作っているのにそれを制御できるレベルの知力を身に付けていない。文明は蓄積できるが知恵は蓄積できないからだ。
 人類に許される武器はせいぜい刀までだろう。刀で人を切れば相手の骨を断つ感触が伝わるし血や苦悶の表情も見ざるを得ない。だから恐ろしいことをしたと後悔できる。しかし銃以上の強力な武器では実感が伴わずテレビゲームのようなヴァーチャルな感覚になってしまう。

男女平等

2010-06-01 14:02:20 | Weblog
 5月27日の京都地裁で「顔の傷の重さは男女同じ」として障害等級認定基準の男女差を違憲としたが、どうだろうか。
 顔の傷の重さには個人差がある。ボクサーなら余り気にしないし、芸能人やホステス・ホストにとっては重大な問題だ。こういったことを考慮せずに、平等でないことだけを根拠にして違憲と決め付けるのはどうかと思う。
 クレオパトラの鼻がもう少し低ければ歴史は変わっていたかも知れないが、私の鼻など高かろうが低かろうがどうでも良い。美男・美女ならその容姿の経済的価値は高いが、初老の私の容姿なら大した値打ちは無い。
 仮に通り魔に髪を切られた場合、ロングヘアーの女性なら傷害罪になるだろうが、私なら散髪代さえ貰えれば許す。
 男女が喧嘩をして双方の顔に傷が付いた場合「お互い様」で済むだろうか。私は男が賠償責任を負うと考える。
 差別は悪いことだが弱者救済や弱者優遇は必要なことだ。もし弱者救済や弱者優遇まで差別として禁じられるなら色々と困ったことになるだろう。反差別にこだわり過ぎることは悪平等に繋がりかねない。