俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

子供サラ金

2010-06-04 14:36:11 | Weblog
 子ども手当ては実質的には子供サラ金と言える。国債によって賄っているからだ。国債はいずれ償還せねばならない。その償還のための増税を負担させられるのは現在子ども手当てで恩恵を受けている世代だ。これでは子供にサラ金で借金をさせるようなものだ。
 道路を作るために国債を発行するのは納得できる。道路は次世代も利用するものだから次世代にも負担して貰っても良い。これは企業における減価償却のようなものだ。
 今後、国の収入が減ることは分かっている。労働者の数が減り、個々の賃金の上昇も期待できないから所得税は減る。先進国の法人税は25~30%に対して日本の法人税は約40%だから、産業の空洞化を防ぐためには法人税減税をせざるを得ない。
 増やせるのは消費税だけだ。しかし子ども手当てに使った金を回収するために何%の増税が必要なのだろうか。
 やるべきことは唯ひとつ。支出を減らすことだけだ。聖域無き支出削減が必要だ。つまり医療費や年金も含めて見直す必要がある。そして何よりも政・官がやりたがらない議員制度改革と行政改革が急務だ。しかし政・官がやりたがらないことを誰がやるのだろうか。結局、河村たかし名古屋市長のような志のある政治家に期待するしかない。
 金権政治家やばら撒き政治家を許さず、本気で国民の未来を考える政治家を選ぶことは国民の義務だ。政治家だけが悪いのではなく、そんな政治家を選んだ国民のほうがもっと悪い。いつまでも国債に頼っていてはギリシャの二の舞になってしまう。

未来

2010-06-04 14:20:18 | Weblog
 3月末に中途退職した時点での私の思惑は、大学時代の生活に戻るということだった。
 私にとって大学生活は天国だった。単位は3回生の時点で総て取っていたので生活は全く自由だった。読書、スポーツ、交遊、遊び、アルバイト等々どれも充実していたので余りにも居心地が良く、大学生活は5年間になってしまった。
 仕事さえ辞めれば自由時間を取り戻して学生生活のような薔薇色の余生が送れると思ったがそうは行かない。
 現在の生活は、読書と水泳の毎日で、それ以外には週2回のブログの更新ぐらいで、理想として思い描いた晴耕雨読の生活の筈なのに充実感が乏しい。何が違うのか?
 大学生の時には未来があった。色々と下らないことをやって失敗してもそれは将来のためのコヤシになると思ったから何にでもチャレンジできた。
 初老の現在、未来は狭い。認知症になることを恐れつつアンチエージングに励むばかりだ。失敗がコヤシになるというようなポジティブな考え方は難しい。20年以内に死ぬと考えれば手広く色々やるよりは堅実に積み重ねることを選びたくなる。
 老人の自由は学生の自由とは違う。豊かな未来があるかどうかでその質は全然異なってしまう。若い頃のように自由を謳歌することは高齢者には難しい。老人の自由は死刑囚の自由のようなものだ。だから多くの老人がシルバーボランティアのような自己満足の世界で生きがいをでっち上げようとするのだろう。