俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

水着

2010-06-18 16:33:33 | Weblog
 水着はビーチやプールでの正装だ。ビーチやプールでスーツを着ていれば居心地の悪さを感じる。しかし街中を水着で歩くのは変態か露出狂だけだろう。
 周囲がみんな水着でいるなら水着は恥ずかしくない。一人だけ水着でいれば恥ずかしい。
 みんなが裸なら裸も恥ずかしくない。一人だけ裸だと恥ずかしい。美術学校のヌードモデルは非常に恥ずかしさを感じる仕事ではないだろうか。
 このように服装の是非はその状況に支配される。多数者の服装が正しい服装だ。同じように思考も状況に支配される。
 社内での会議において社員は社内用語で話す。その多くは社外の人には理解できない特殊な言葉だ。社内用語を使って、それぞれが立場に相応しい言葉遣いで、状況に相応しい意見を述べる。独創性よりも状況性のほうが重要だ。こんな会議で創造的な意見が出る筈が無い。
 まともな議論のためには空気を読まないことが必要だ。空気を読めば各人がそれぞれの役割を演じる仮面劇になってしまう。

混浴

2010-06-18 16:05:10 | Weblog
 江戸時代まで日本では混浴は当たり前のことだった。このことは寛政の改革でも天保の改革でも「男女入込の禁」が命じられたことからも明らかだ。当たり前だったからこそ何度禁止令がだされても無視され続けた。
 混浴が無くなったのは外圧による。裸を醜いものとする西洋人の圧力に明治政府が屈して徹底的に取り締まったからだ。それでも今なお一部の温泉では混浴の習慣が残っている。
 なぜ混浴は猥褻ではないのか。日本人の意識では見ることと触ることとは天地の開きがある。見られても減るものではないし、増してや妊娠することなど無い。だから裸を見られることは恥ずかしいことではなかった。庭先での行水も日常的光景だった。
 西洋の価値観に基づいて裸を禁じた日本が裸を認めたのは、恥ずかしい話だが、西洋人の価値観の変化による。「神に与えられた肉体は美しい」と主張する人々がヌーディストビーチやヌーディスト村を作り、ポルノも解禁された。日本ではそれを後追いしてヘアヌードが解禁された。主体性の無い恥ずかしい話だ。全く西洋かぶれの文化後進国だ。
 イスラムの世界では今なお女性は水着を着ることができない。それどころか顔も隠さねばならない宗派もある。もし隠すことが文明の尺度なら、イスラム圏が最も高度な文明で江戸時代までの日本が最も野蛮な文明ということになるだろう。
 同性愛のフランス人が日本に憧れて是非渡日したいと願っているという話を聞いたことがある。それは銭湯があるからだという。彼にとって不特定多数の同性との入浴はハーレムかパラダイスのようなものなのだろう。
 そんな邪な欲望を持つ人と「裸なんて自然の一部」と考える日本人とどちらが健全であるかは論を俟たない。

守備力

2010-06-18 15:49:26 | Weblog
 サッカーの日本代表は決定力が足りない、とよく言われる。とんでもない。日本のこれまでのサッカーの弱点は守備力だ。予選で敗退したドイツ大会では得点が2で失点が7だった。もし得点がこのままで失点が0だったら予選を突破できていた。失点さえしなければ負けることは無い。悪くても引き分けだ。今大会でスイスがスペインに1-0で勝ったのは正に守り勝ちだ。
 サッカーの得点なんて大半は棚ボタのようなものだ。ゴール前の混戦とかこぼれ球から得点するケースが圧倒的に多い。時にはオウンゴールもある。華麗なロングシュートなど滅多に決まるものではない。
 得点力より守備力だということは野球を考えればすぐに分かる。誰が投げるかだけで勝敗は7割方決まる。
 大横綱の双葉山も大鵬も守りの名人だった。相手の攻撃を受け切ってから堂々と攻めて勝った。
 将棋の大山永世名人も受けの達人だった。
 得点シーンはゲームの華だからスポーツニュースでは得点シーンばかり放映される。ピッチャーはさぞかし不愉快なことだろう。ピッチャーが目立つためには完封するしか無い。
 目立つ得点よりも目立たない無失点のほうが重要だ。カメルーン戦の殊勲者は、ゴールを決めた本田選手やそのアシストをした松井選手だけではなく、川島選手や長友選手を始めとする守備陣だ。
 菅首相は攻める時には論客だ。しかし攻められると「イラ菅」と呼ばれる弱点が出る。もっと守備力を高める必要があるだろう。