俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

醜い性器(2)

2010-08-06 15:19:34 | Weblog
 08年9月11日付けの「醜い性器」は私の記事の中で最も多く読まれている記事の1つだろう。但しこの記事には欠点がある。女性が性器を隠した理由は説明できたものの、男性が性器を隠した理由については全く触れていない。従って続編を書く義務がある。
 不特定多数からの受精を避けるために女性が性器を隠したあと何が起こっただろうか。その後もかなり長い間、男性は性器を露出したままだっただろう。
 競争が大好きな男性という種族は男同士で一物を競っていたことだろう。ところがここで不満が生じる。男性は性器を曝しているのに女性は隠している。これでは取引として不公平だ。
 男性は競争することは大好きだが一方的に品定めされることは好まない。品定めをされるということは自らを商品の地位に落とすことになるからだ。女性が出し惜しみするのなら男性も出し惜しみをしてこそ公平な取引になると男性は考えた。
 勿論、他の理由もある。走る時にはぶら下がった性器は邪魔だ。全裸で走るよりもパンツを履いたほうが男は早く走れるという実験結果も出ている。
 もう1つ、睾丸が急所であることも忘れてはならない。目と睾丸は鍛えることによって攻撃耐性を高めることができない。そのため睾丸を隠すことは喧嘩や戦闘においては有利となる。
 様々な理由から男性も性器を隠したが、女性が性器を隠さねばならないほどの決定的な理由は無い。そのため男性の性器隠匿欲求は女性と比べて遥かに乏しい。
 

他責型鬱病

2010-08-06 15:02:45 | Weblog
 他責型鬱病という病名を知って驚いた。鬱病は過度に自責な人がかかる病気だと思っていたからだ。「生まれてご免なさい」とか「みんな私のせいだ」といった意識から抑鬱的気分になるのが鬱病であり、責任を他者に転嫁する人は人格障害であって鬱病とは全く反対のものと思っていた。
 ところがこの他責型鬱病にも抗鬱剤が効くそうだ。症状は全然違っていても同じ薬が効くことから新型鬱病と定義されたらしい。
 随分乱暴な話だ。同じ薬が効くから同じ病気だとうい理屈には全く同意できない。
 もしある薬がアル中にもニコチン中毒にも麻薬中毒にもギャンブル依存症にも仕事中毒にも効いたら、これら総てを「依存症」と決め付けて良いのだろうか。勿論そんな薬は存在しないし依存症という病気も存在しない。
 多分、抗鬱剤には気持ちを大らかにする効果があるのだろう。だから、自分だけが悪いと考える鬱病にも、他人だけが悪いと考える新型鬱病にも効くのだろう。
 極めて身近な薬物であるアルコールにも同じような効果がある。アルコールを摂取しただけで細かいことには拘らなくなる。だからと言って様々な精神病を「アルコール欠乏症」という形で一緒くたにすべきではない。
 「他責型鬱病」にも様々な種類があるだろう。最初から「あいつが悪い」と決め付けるモンスターペアレントのような人もいれば、自責の重みから逃れるためにスケープゴートをでっち上げざるを得なかった人もいるだろう。

集団のルール

2010-08-06 14:46:31 | Weblog
 平日の午前中の屋外プールは比較的快適に泳げる。お互いがマナーを守っているからだ。しかし午後や土日は無法地帯となる。なぜか?「集団」が来るからだ。
 集団はマナーを守らない。自分達のルールに適っていれば良いと考える。彼らの基準では「正しい我々と邪悪な他人」となっているようだ。
 集団は仲間であれ家族であれ、自分達には楽しむ権利がありそれを邪魔する他人は邪悪な存在と見なしているようだ。
 集団内ではルールは厳格に守られる。水中鬼ごっこであろうとプールを横切る競泳であろうと彼らのルールには忠実だ。しかしそのために集団外の人を蹴ろうとぶつかろうと意に介しない。まるでサッカー競技中に紛れ込んだヤジ馬を邪魔者として排除するような姿勢だ。
 集団内では共同体的繋がりがあり、お互いに配慮しているが、その配慮は外へとは全く向かわず傍若無人の振る舞いとなる。暴力団や暴走族が迷惑なのはこれと同様、社会のルールよりも彼らの集団のルールを優先するからだ。
 共同体的倫理においては仲間と他人は明確に区別される。仲間でない者は人間とさえ見なされない。昔の悪しき「ムラ社会」が思わぬ所で再現されているように思われる。共同体的意識が生まれると市民社会的マナーは無視される。日本人は社会人である「市民」としてはまだまだ未成熟で今なおムラ社会的倫理観に基づいて行動していると考えざるを得ない。