俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

まともな人

2010-10-05 14:36:19 | Weblog
 私は周囲から「変人」と評価され易い。確かに敢えて空気を読まずに変な発言をしたり、物事を修正ではなく根本から改めようとする。
 子供の頃は私自身も自分を変人だと思っていた。同級生とは全然違ったことばかり考えていたからだ。ところが大学生になって、私の生涯で最もレベルの高い仲間と交際を始めると、自分がまとも過ぎると考えるようになった。私の能力で最も欠けているのは狂気だとさえ思った。
 常識はしばしば矛盾する。支離滅裂でさえある。こんな常識に基いて真摯に生きることは不可能だ。中庸とか「ほどほど」という立場で誤魔化すことは論理的には可能だが私はそれを選択しようとは思わなかった。だから私は哲学を専攻せざるを得なかった。
 哲学の手法を使って世の中を見直したら、良識や報道がいかにご都合主義に基いて形成されているのかがよく分かった。具体例は敢えて挙げないが、私のブログの記事の大半が非・常識、反マスコミのスタンスで書かれていることは認めて貰えるだろう。
 社会の基準が正しいなら私は変人だが、社会の基準が狂っているなら私こそ「まともな人」だろう。逆説的な言い方だが、私には狂気も狂信も欠けているために、ある意味で当たり前のことしか主張できないということが私の最大の欠点だ。

多数者

2010-10-05 14:25:25 | Weblog
 もし高齢者の医療制度を見直すなら今のうちだ。数の多い団塊の世代が現在の前期高齢者から後期高齢者になりかけてから医療制度を見直そうとすれば激しい抵抗に会うだろう。団塊の世代という多数者が抵抗すれば医療制度改革は不可能だ。
 あらゆる政策は利害対立を伴う。特に年金や医療制度は現役世代から金銭を徴収して退職世代へ給付する収入の再分配システムなので、今後は階級対立以上に世代間対立が顕著になりかねない。少数の現役世代と多数の退職世代という構造だ。
 実数では現役世代のほうが多いが、団塊二世・三世にとっては団塊一世の利益は自らの利益としばしば一致する。その結果として団塊一世およびその上の世代とそれぞれの二世・三世連合軍対その他の世代との対立ということになる。
 後期高齢者医療制度を拙速に導入したのは、団塊の世代が後期高齢者に近付かないうちに改革せねば未来永劫チャンスは無いという焦りからではないだろうか。その意味では民主党政権も医療制度と年金制度の改革を急がないと普天間の二の舞ともなりかねない。

高血圧

2010-10-05 14:04:32 | Weblog
 私は低血圧なので高血圧症については比較的無関心だった。それでも塩分を摂り過ぎることは体に良くないと何となく思っていた。ところがこの夏の猛暑でマスコミが盛んに水分と塩分の摂取を喧伝するので塩分のリスクについて考えた。
 なぜ塩分は有害とされたのだろうか。かつて秋田県では脳卒中で亡くなる方が非常に多かったが減塩運動を通じて改善された。この事実が塩=悪という常識に繋がったようだ。つまり①血圧が高いと脳卒中になり易い②塩は血圧を上げる③従って塩は有害、という図式だ。
 しかしこの図式は原因と結果を単純化し過ぎているように思える。梅干に代表されるような塩辛い漬物があればおかずは少しで済む。こんなご飯と漬物というバランスの悪い食生活をやめて多彩なおかずを食べるようにしたから健康になったと考えるほうが正しいのではないだろうか。
 そもそも血圧が高いということは本当に健康のために悪いことなのだろうか。生体活動のための必要悪として血圧が上がっているのなら、その原因を放置したまま薬で血圧を下げることは百害あって一利無しとさえ思える。
 最も血圧の高い動物はキリンだ。260~160mmHgというとんでもない高血圧だそうだ。しかしもしキリンの血圧がもっと低ければあの長い首の上にある脳に充分な血を巡らせることができなくなる。
 人間の高血圧も同様のことが考えられる。特に高齢者の血管は動脈硬化などによって狭くなっていることが多い。狭い血管で血流量を維持しようとすれば血圧を上げる必要がある。血管の狭さを放置したままで血圧だけを下げれば、充分な血液が脳に供給されずに認知症になるのではないだろうか。こういうタイプの高血圧の人に施すべき治療は、葉酸の摂取などによる血管の改善であって減塩や施薬による血圧降下ではない。これは悪しき対症療法に過ぎない。