私は周囲から「変人」と評価され易い。確かに敢えて空気を読まずに変な発言をしたり、物事を修正ではなく根本から改めようとする。
子供の頃は私自身も自分を変人だと思っていた。同級生とは全然違ったことばかり考えていたからだ。ところが大学生になって、私の生涯で最もレベルの高い仲間と交際を始めると、自分がまとも過ぎると考えるようになった。私の能力で最も欠けているのは狂気だとさえ思った。
常識はしばしば矛盾する。支離滅裂でさえある。こんな常識に基いて真摯に生きることは不可能だ。中庸とか「ほどほど」という立場で誤魔化すことは論理的には可能だが私はそれを選択しようとは思わなかった。だから私は哲学を専攻せざるを得なかった。
哲学の手法を使って世の中を見直したら、良識や報道がいかにご都合主義に基いて形成されているのかがよく分かった。具体例は敢えて挙げないが、私のブログの記事の大半が非・常識、反マスコミのスタンスで書かれていることは認めて貰えるだろう。
社会の基準が正しいなら私は変人だが、社会の基準が狂っているなら私こそ「まともな人」だろう。逆説的な言い方だが、私には狂気も狂信も欠けているために、ある意味で当たり前のことしか主張できないということが私の最大の欠点だ。
子供の頃は私自身も自分を変人だと思っていた。同級生とは全然違ったことばかり考えていたからだ。ところが大学生になって、私の生涯で最もレベルの高い仲間と交際を始めると、自分がまとも過ぎると考えるようになった。私の能力で最も欠けているのは狂気だとさえ思った。
常識はしばしば矛盾する。支離滅裂でさえある。こんな常識に基いて真摯に生きることは不可能だ。中庸とか「ほどほど」という立場で誤魔化すことは論理的には可能だが私はそれを選択しようとは思わなかった。だから私は哲学を専攻せざるを得なかった。
哲学の手法を使って世の中を見直したら、良識や報道がいかにご都合主義に基いて形成されているのかがよく分かった。具体例は敢えて挙げないが、私のブログの記事の大半が非・常識、反マスコミのスタンスで書かれていることは認めて貰えるだろう。
社会の基準が正しいなら私は変人だが、社会の基準が狂っているなら私こそ「まともな人」だろう。逆説的な言い方だが、私には狂気も狂信も欠けているために、ある意味で当たり前のことしか主張できないということが私の最大の欠点だ。