俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

1989年

2010-10-29 17:02:12 | Weblog
 1989年は不思議な年だ。王様や神様などと呼ばれた大物が次々と亡くなった。
 1月の昭和天皇の崩御からそれは始まった。芸術の世界では「天才」画家のサルバドール・ダリと指揮者の「帝王」カラヤン。芸能界では「歌謡界の女王」美空ひばりさん。経済界では「経営の神様」松下幸之助氏。政界ではイランの最高指導者ホメイニ師とフィリピンに「マルコス帝国」を築いたマルコス元大統領。科学者では「ソ連水爆の父」サハロフ博士。そして「漫画の神様」手塚治虫氏。
 生き残った王様・神様は映画の「黒澤天皇」と「キング・オブ・ポップ」のマイケル・ジャクソンぐらいしか思い当たらない。(但しサッカー界だけは例外で「神様」ペレも「皇帝」ベッケンバウアーも「キング・カズ」も健在だ。)
 これだけ王様・神様が大量に死ねば日本のバブルが崩壊して「失われた20年」を迎えるのも無理はない。むしろ日本列島が沈没しなかったことに感謝すべきだろう。
 冗談はさて置きこの年は歴史の転換点だったと思う。日本では消費税が導入され、中国では天安門事件が起こり、アメリカではブッシュ大統領が就任し、ドイツではベルリンの壁が壊され始めた。政界の「闇将軍」田中角栄氏が引退を発表したのもこの年だ。
 正に「終わりの始まり」のような年だった。現代史は1989年から始まったとさえ思える。

グローバル化

2010-10-29 16:45:48 | Weblog
 グローバル化が政治の無力感に繋がっている。政治家は国内では権力者であり、必要なら新しい法律を作ることができる。しかし国内法は外国に対しては無力だ。
 国内の悪事には警察が対応できる。しかし他国による悪事に対しては日本人が大の苦手の外交に頼らざるを得ない。
 グローバル化するまでは政治問題の大半が国内問題だった。極論すれば日米関係だけが国際問題でそれ以外は総て国内問題だった。今では国内問題として処理できることは極めて少ない。工場の設置は国内での選択ではなく海外との競争になる。石油価格にせよ領土問題にせよ国内で仲良く話し合っていても解決できない。外国との交渉が必要だ。
 本来、国内で解決できる筈の雇用や生活保護や子ども手当てでさえしばしば外国人問題が絡む。
 昔から「和をもって貴し」としていた日本人は外交下手だ。国内で調整することは得意でも外国との交渉では常に押し切られるか交渉決裂になる。京都議定書など最低の決着だ。日本だけがCO2の大幅な削減を課されて、これを達成するためには他国のCO2の排出枠を買うしかない状況だ。外交下手のツケを税金で賄うという突拍子もない失政だ。議長国が模範を示せば他国も付いて来るという考えは幻想に過ぎず、どこかの負担が増えるとは他国の負担が減るということだ。負担の減る各国は日本の愚行を大喜びしたことだろう。
 今日が会期末の「国連生きもの会議」でも同じ失敗をしでかしそうだ。

真善美

2010-10-29 16:45:21 | Weblog
 真・善・美は対等ではない。真が上位概念だ。善も美も事実(真)に基づいて再評価されねばならない。偽りに基づいた善と美は無価値どころか有害でさえある。
 偽りに基づいた善とは何か。広く共有されている偏見のことだ。これらの多くは宗教的偏見から派生する。曰く、牛を食うべからず、豚を食うべたらず、鯨を食うべからず、殺生をすべからず等々。
 善の定義は難しい。多分不可能だろう。そのため多くの場合は十戒のように禁忌(悪の否定)によって定義しようとする。それに倣うなら「合理的な根拠なく禁ずべからず」が善の定義の1つと言えよう。
 確実な善としては「命を守る」ということが挙げられる。私は決して生命至上主義者ではないが「命あっての物種」であることは間違いない。生命は行動するための場を提供する。場が無くなれば何もできなくなってしまう。
 美は善以上に難解だ。そもそも各人が見ている物が同じかどうかさえ疑わしい。色盲の人は違った色を見ているし、トンボは人間とは全然違った世界を見ている。
 的を絞って美女について書こう。美女に関する最大の嘘は「痩身は美しい」ということだ。低カロリー食をヘルシー食と呼んだ人は大嘘つきだ。痩身は肥満体よりも死亡率が高い不健康体だ。こんな不健康な体を美しいと感じるのは、人間は美を感知する本能が壊れており、慣れさせてしまえばそれを美しいと思うからとしか考えられない。
 もしそういうことなら偽美女を追放することは意外と簡単なことかも知れない。マスコミがミイラ女を使うことをやめて健康美女を頻繁に登場させれば審美眼も自動的に修正されるということになる。