俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

痛み

2010-11-02 16:44:49 | Weblog
 多分人間は痛みに最も敏感な動物だろう。平和な社会では怪我をしたら直ちに治療することが生存の可能性を高めるからだ。恐らく今後人類は益々怪我に敏感になる、つまり怪我に対する耐久力を失うだろう。それどころか現在既に進行中なのかも知れない。最近では子供だけではなく若者もちょっとした怪我でも大騒ぎする。救急車の利用が増えているのはこのことも一因だろう。小さな怪我でも耐えられない痛みと感じているのかも知れない。
 人間は痛みを感じると止まる。歩いていて右足が何かに当たれば右足の動きを止める。肩や肘に痛みを感じればプロ野球の投手でも全力投球はできない。
 野生動物は怪我に対して鈍感だ。足を折った程度のことで動けなくなればたちまち捕食者の餌食になってしまうからだ。痛みを訴えることよりも傷害に耐えることのほうが野生生活での生存の可能性を高める。動物の感じる痛みは、人間が鎮痛剤を使って痛みを抑えている時に感じるような鈍痛程度なのかも知れない。
 痛みを感じることは必要なことだ。もし痛みを感じなければ怪我をした場所を通常通りに使って怪我を悪化させてしまう。痛みを感じればその部分の使用を控えて治癒に専念できる。
 人間は痛みに敏感なのですぐに活動を停止する。しかし停止せずに耐えたり楽しんだりすることも時には必要なのではないだろうか。特に心の痛みに対しては。

宗教の弊害

2010-11-02 16:27:32 | Weblog
 宗教団体は平和主義者ではない。日本の仏教が概して平和主義なのは織田信長によって徹底的に骨抜きにされたからに過ぎない。それまでの仏教は武蔵坊弁慶に代表されるような僧兵を擁して戦っていた。
 戦争の大半は宗教戦争だ。イスラム教国はユダヤ教国・キリスト教国・ヒンズー教国と争うだけではなく、イスラム教内でもシーア派とスンニ派に分かれて内紛を続けている。北アイルランド紛争は新旧キリスト教徒による宗教戦争だ。
 なぜ宗教は紛争を招くのか。自分達だけが正しく他は邪教だと説くからだ。独自の発展を遂げた日本仏教においても日蓮宗の各派は排他性が強く、他の仏教とだけではなく宗派内でも争って闘争と分裂を繰り返している。
 オウム真理教によるテロは狂人による特異な事件とは言い切れない。宗教的必然性がある。各宗教は自分達だけが正しく他は邪教だと考える。もし邪教を信じれば地獄に墜ちるなら、一刻も早く邪教による支配を転覆させることが人類の救済に繋がる。
 宗教は文明をさえ衰退させる。中世ヨーロッパはキリスト教の弊害により暗黒時代を迎えた。もしイスラム圏がギリシア・ローマ文明を継承していなかったら西洋文明は断絶していたところだった。イスラム圏から伝わったギリシア・ローマ文明がルネッサンスを起こしてヨーロッパを近代文明へと向かわせた。
 このように宗教は人類を排他的・好戦的にし、文明を衰退させる恐ろしい毒物だ。宗教に毒されていない無神論者が多数を占める日本は世界一の文明国と言っても差し支え無かろう。

森を見る

2010-11-02 16:09:45 | Weblog
 社会主義国には公害や賄賂は存在しない筈だ。なぜなら社会を中心に考えるなら必然的に個人の邪な利益は否定されるからだ。公害や賄賂のような反社会的な行為は個人の利益を奨励する悪しき資本主義社会にしか存在しない筈だ。
 しかし現実は全然違う。社会主義を標榜する国およびかつて標榜していた国のほうが公害や賄賂が横行している。なぜか?
 国家主義や全体主義という言葉があり通常これらは社会主義の反意語として使われることが多いが、個人主義者の私から見ればこれらは類義語だ。こういう森を見て木を見ない考え方は、全体の利益のためという口実を作って個人を犠牲にしようとする憎むべき全体主義でしかない。
 権力者は全体(社会)とは我々権力集団のことであり我々以外を犠牲にすることを正当と考える。全体である彼らにとって有利であることは善いことであり不利なことは悪いことと決め付ける。社会秩序を守るためには言論の自由は有害であるから言論統制は必要不可欠だと彼らは考える。こうして彼らは自分達の利益を公益と見なし彼らの価値観に基づいて統制することが社会正義だと考える。
 官僚が国益よりも省益を優先することも、社会主義国で公害や賄賂が横行することも根は1つだ。全体(社会)を我々権力集団と同一視するから問題が生じる。
 中国の共産党独裁であれミャンマーの軍事独裁であれ、最重要課題は権力を握った集団の維持・発展であり、国や社会の発展ではない。彼らにとっては庶民などどうでも良い。森ばかりを見れば木は見えなくなる。