俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

競争社会

2010-11-30 15:34:18 | Weblog
 勝負の世界は全然厳しくない。世にも稀な公平な社会だ。良い結果さえ残せば評価は勝手に付いて来る。
 受験戦争や受験地獄という言葉を使う人を私は軽蔑する。高校や大学への進学で公平に競争できたことを僥倖とさえ私は思っている。他の競争は余りにも不公平だからだ。
 例えば就職試験、これは明らかに不公平だ。人気企業ほど親の地位によって採否が左右される。
 入社してからも合理的な評価は期待できない。最も有能な経営者の一人と言われ経団連の会長も勤めたトヨタの奥田元社長でさえフィリピンに飛ばされてサラリーマン生命を絶たれそうになったが運良く蘇った。理不尽な処遇に泣いた社会人は数知れない。
 企業間の競争も不公平だ。宣伝費を多く使う企業はマスコミに守られて不祥事も揉み消される。槍玉に挙げられるのは有名でありながら宣伝費の少ない企業だ。これはマスコミによる恫喝だ。暴力団のみかじめ料と同質のものだがこちらを取り締まる法律は無い。
 結果が正当に評価される勝負の世界は理想的な競争社会だ。勿論、例外はある。東十両筆頭で勝ち越したにも関わらず入幕できなかった気の毒な力士がいた。幕内から陥落する力士が一人もいなかったからだ。勝負の世界ではこれは稀なケースだがビジネスの世界では日常茶飯事だ。ポストが空かなければ昇進できない。
 運ではなく結果に基づいて正当に評価される社会は真面目に生きる人に生きがいを与える。逆に運に振り回される社会では努力することが虚しくなってしまう。これが閉塞感を生む。

やり返す

2010-11-30 15:18:43 | Weblog
 どんな人が生存競争で最も有利かというシミュレーションゲームがある。競争者を単純に「善人・悪人・普通の人」としておこう。善人は戦わない。悪人はいつも戦う。普通の人は戦ったり戦わなかったりする。誰が生き残るだろうか。
 実は「普通の人」が一番強い。善人は悪人にやっつけられ、悪人は悪人同士での戦いに明け暮れて勢力を広げられない。結局、普通の人が最も繁栄する。
 最強である「普通の人」の中でも最も強いのが「やられたらやり返す」という単純な戦略だ。多くの学者がもっと複雑な戦略を建てて挑戦するがことごとくこの戦略に敗れ去るそうだ。ゲーム理論の世界ではこれが現時点での最強の戦略とされている。
 外交も同じだ。平和共存を訴えることは広く支持される。しかし平和秩序を破壊しようとする「悪国」に対して話し合いは無意味だ。断固たる態度、つまり「やられたらやり返す」という姿勢が必要だ。
 平和な社会では暴力装置は不必要なように思われ勝ちだが、やられたらやり返せるということを示さなければ平和は維持できない。
 警察官は滅多に使うことの無い拳銃と警棒を持っている。これは使うことが目的ではない。「いつでも使える」という警告を発することが目的だ。
 孫子が説いた通り「戦わずして勝つ」ことが最善策だ。戦争は莫大な浪費でしか無いが、いつでも戦えるということを誇示することが平和を守るためには必要なことだ。弱腰は相手を増長させる。

自己超克

2010-11-30 15:04:44 | Weblog
 動物は下りエスカレーターに後ろ向きで立っているようなものだ。前進を続けなければどんどん下降してしまう。現状を維持するためには前に向かって歩き続けねばならない。上昇するためにはそれ以上に早く歩かねばならない。
 上昇をしようとすると何度か壁にぶつかる。つまりそれまでの自分という枠にぶつかる。それを否定することは自己否定であり不愉快なことだ。
 海老や蟹や蛇などの動物は脱皮しなければ成長できない。海老や蟹にとってこれは大変な試練だろう。それまで自分を守っていた甲殻を破棄することは大きな労力を要し危険でもある。新しい甲殻が固まるまで彼らは外骨格無しで生きねばならない。しかし脱皮を拒否した個体は成長できない。
 人はどこかで成長を止める。新しい考えを拒絶して自己弁護のための理論武装に励むようになる。それほど自己否定は不快なことだ。もし人間が不快を避けるだけの動物だったら自己否定などしない。しかし人間は一方では快を求める動物でもあるので自己超克に喜びを見出す。
 快を求めることと不快を避けることとは両立し得ない。快を求めれば不快も増える。不快を避けるために現状維持に励むか、快を求めて自己超克に挑むかは各自が決めるべきことだ。但し社会そのものも変化するのだから維持のためにではなく超克のために努力するほうがずっと合理的だ。