俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

天災と人災

2011-04-08 15:48:22 | Weblog
 雷や台風に怒る人はいない。天災に対しては耐え忍ぶしかなくその災害は諦めるしかない。地震も基本的には同じことだ。
 人災には怒るべきだ。原発事故の責任は厳しく問われねばならない。東京電力や政府、そして内閣府の原子力安全委員会と経済産業省の原子力安全・保安院は責任を取るべきだ。
 原子力安全委員会と原子力安全・保安院が別の省庁に属する理由が理解できない。縦割り行政の弊害が出て機能不全に陥って当然だ。機能不全にするためにわざわざ別の省庁に所管させているのではないかとさえ勘繰りたくなる。
 この2つの組織は今回の原発事故ではどんな役割を果たしたのだろうか。原子力安全・保安院は後追いでまるで他人事のような姿勢で殆ど無内容な会見をするばかりだし、原子力安全委員会に至っては何をしているのかさっぱり分からない。こんな役立たずの組織は要らない。税金の無駄遣いだ。
 私は誤解していたのかも知れない。そもそもこの2つの組織は原発を安全に運営するための組織ではなく、原発を安全と思い込ませることだけを目的としたプロパガンダのための組織でしかないのかも知れない。国民を騙すことが目的の組織なら尚更不必要だ。
 役に立たないこの2つの組織を統合して「原子力危機管理委員会」と改称した上で役割を危機管理に特化すべきだろう。

幸福

2011-04-08 15:32:52 | Weblog
 安全とは危険の少ない状態だが、幸福は不幸の少ない状態だろうか。とんでもない。不幸こそ幸福の少ない状態だ。
 幸福感とは嬉しい・楽しい・美味しいなどの快感が充たされた状態だ。先に成立する概念は幸福であって、幸福でない状態を不幸と呼ぶ。
 では菅首相の言う最小不幸社会とはどんなものだろうか。幸福は感じないが不幸とも思わない社会とは家畜のような状態だろう。近々されることを知らずに、暖かい厩舎と豊富な餌が与えられた不快でない暮らしのことだ。特別養護老人ホームで暮らす認知症の老人やホスピスで暮らす不治の病の人は最小不幸状態を望む。幸福を諦めたからだ。
 幸福は自らの意志と努力によって獲得すべきものだ。しかし多くの場合それは失敗する。何度失敗しても諦めずにチャレンジし続けた人だけが幸福感を得て、諦めた人は不幸にならないこと、つまりチャレンジしないことを選ぶ。例えば野球部で頑張る高校生は勝利の喜びを得るが、レギュラーになれずに退部した人は諦めを学ばされるだけだ。
 最小不幸社会とは人類の家畜化だ。諦めの蔓延だ。こんな状態を理想とする菅首相はとんだニヒリストだ。だから福島・北関東の農民や茨城県・千葉県の漁民を不幸から救おうとせずに、東京都民の不幸を最小化することだけに腐心している。これが1国の宰相の採るべき態度だろうか。地域のボス猿に等しい。

官(=菅)と民

2011-04-08 15:17:34 | Weblog
 政府は福島県と北関東の野菜について「出荷するな、食べるな」というメッセージを出し続けている。一方、小売店では福島と北関東の野菜を売って支援しようという動きが広まっている。
 奇妙な話だ。本来、政府が主導して被災地を支援せねばならない筈なのに逆に風評被害を煽ってばかりだ。それに怒った民間企業と国民は政府の方針の隙間を狙うかのように行動している。
 不思議な光景だ。善良な国民と身勝手な政府という構図は普通考えられない。たとえ実際には身勝手な政治家であろうとも善良であるように見せたがるものだ。
 政治がすべきことは困っている人の救済だ。今一番困っているのは東北と北関東の人々だ。それなのに菅首相個人の選挙区である東京都民の安全・安心を守るために福島・北関東の農民は犠牲にされようとしている。こんなやり方では、民主党政権は沖縄県民に続いて福島・北関東の県民まで敵に回してしまうことになるだろう。
 4日には枝野官房長官が「市町村単位で出荷制限の設定・解除を可能にする」と発表したがその後何の進展も無い。会津地方の野菜からはこれまで1度も基準を超えた放射性物質は検出されていないにも関わらず相変わらず出荷停止のままだ。とにかく対応が遅い。鹿野農林水産大臣は一体何をしているのだろうか。野菜だけではなく魚介類の風評被害も深刻だ。なぜ拱手傍観しているのだろうか。