俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

安全管理

2011-04-29 15:33:35 | Weblog
 福島第一原発は設計上での寿命の直前だった。今年の3月26日で40年の寿命切れとなる筈の原発を延命させたのがかの原子力安全・保安院だ。2月7日に10年間の運転継続を認めたばかりだった。その僅か1ヶ月後にこの事故が起こった。もしこの承認さえ無ければ、あるいは改善命令が出されていれば今回の事故は起こらなかっただろう。こんな前世紀の遺物とも思える欠陥原発の継続使用を認めた原子力安全・保安院の責任は厳しく問われるべきだろう。
 厚生労働省は毎年多くの薬を承認しその一部が薬害を招く。薬は毒なのだからやむを得ないと私は思うのだが、販売を承認した厚労省は責任を問われる。「副作用がある」という警告付きで承認してもイレッサ訴訟のように訴えられる。
 一方、原子力安全・保安院の審査対象は僅か54基の原発だ。たった54基の内4基が重大な事故を起こした。一体どんな審査をしたのだろうか。
 厚労省の場合は「危険だがメリットも大きい」として承認している。原子力安全・保安院はそんな姿勢ではない。危険な箇所を改善させもせずに継続使用を承認するだけだ。こんな組織は百害あって一利無しだ。

安全と安心

2011-04-29 15:17:18 | Weblog
 危険なのは年間20ミリシーベルト以上なのか100ミリシーベルト以上なのか250ミリシーベルト以上なのかよく分からない。政府が適当に使い分けているからだ。とりあえず20ミリシーベルト(時間当たり2.3マイクロシーベルト)未満なら安全なのだろう。福島市や郡山市はこの安全圏に入る。
 しかし安心圏となると年間1ミリシーベルト(時間当たり0.1マイクロシーベルト)以下ぐらいになるだろう。北は岩手県以北、南は千葉県以南ということになるだろう。
 安全値は物理的・医学的に設定できるが安心値は設定できない。個人の主観だからだ。岩手県なら安全と考える人もいれば沖縄まで避難してやっと安心する人もいる。
 このように安全と安心には大きなギャップがある。安全と安心は質的に異なった概念だ。
 「食べても直ちに影響は無い」という言葉は曖昧だ。もし被害が出れば「長期的には危険だと警告した」と言い逃れできるし、風評被害で訴えられれば「影響は無いと繰り返したのに消費者が勝手に危険と判断した」と言い逃れできる。責任を取ることを極度に恐れる菅無責任内閣らし過ぎる逃げ口上だ。結局、安全とも危険とも言っていないのだから消費者は「安心」を求めることになって風評被害は拡大される。
 過剰とも思える政府による規制を見ていると、多数を占める都会に住む人を安心させるために、少数者である東北・北関東の農民・漁民は犠牲にされているようにさえ思える。民主党に比べれば自民党のほうが過疎地に住む少数者にも優しい政権だったことに最近になって初めて気付いた。

国の負担

2011-04-29 15:02:40 | Weblog
 東京電力が賠償できなければ国が負担すると菅首相は偉そうに言うが実態は「国民に負担させる」ということだ。
 国は何ら付加価値を生まない。国民の富を再分配することだけが彼らの仕事だ。国が負担すると気前の良いことを言っているが実は国民に負担させるだけのこのことだ。権力者の懐は痛まない。
 もし国が負担すると言うのなら東電の役員報酬について云々する前に、政治家と公務員の報酬を削り無駄な公共事業やバラマキを即刻やめるべきだ。それをやらない限り「被災者を含む全国民に負担させる」ということにしかならない。
 金を搾り取られる側の国民としては負担が少ないほうが望ましい。既に起こってしまった震災と津浪と原発事故に対する負担はやぶさかではないが、現在も拡大しつつある風評被害については、放置しておいて補償するのではなく阻止すべく努めて貰いたいものだ。
 政府は風評被害を阻止する努力を怠っている。逆に煽っているようにさえ思える。これは多数者である都会人の安心(≠安全)を高めるためなら少数者である過疎地の住民を犠牲にしても構わないという想念の現れだろうか。危機感を煽って風評被害を拡大しておいてそのツケを国民に回すような政府など要らない。50歩100歩だなどと考えずに少しでも国民の負担を軽減すべく最大限の努力をすべきだ。