俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

政官民

2011-04-15 15:42:33 | Weblog
 政府と原子力安全・保安院と東京電力がバラバラに記者会見を開いている。時には相矛盾することもある。なぜ一本化できないのだろうかと不思議に思う。
 実はそれぞれが政府と官僚と企業の立場で発表しているだけだ。政府(枝野官房長官)は政府の立場を正当化するため、原子力安全・保安院は自らの組織の存在意義を否定されないため、東京電力は少しでも有利になるために記者会見を開いている。それぞれが自分に都合の良い情報を流しているだけだ。
 異なった情報が存在することは大本営発表による一元化よりはマシだろう。どれかが本当のことを言っている可能性があるからだ。しかしこれだけバラバラだと情報の消化不良に陥りかねない。
 こういう時こそ政治主導をすべきだろう。決して政府発表に一本化するのではなく、三者が同席すべきだろう。それぞれの発表に矛盾があれば記者会見の場で問題点を明確化して貰いたいものだ。言いっ放しという姿勢は無責任であり国民に適切な情報を提供したことにはならない。曖昧な情報を垂れ流しているに過ぎない。
 バラバラの記者会見は政官民の相互不信の現れであり、政官民が分断していることは菅内閣の指導力が欠如していることの証明だろう。こんな内閣に未曾有の非常事態の解決を任せることは危険だ。後で後悔しても手遅れになる。

想定外

2011-04-15 15:28:32 | Weblog
 「想定外」という言葉で責任逃れができると考えるのは権力者だけだ。権力者は現場を見ようとしない。現場で起こる事実よりも自分の理念を重視するから想定外の事実を黙殺しようとする。見たくない事実を見ないだけだ。
 モンスターペアレント、モンスターペイシェント、モンスターカスタマーがモンスターと呼ばれるのは想定外の要求をするからだ。想定外の要求には個々に対応せざるを得ない。
 事故が避けられないのと同様、想定外の事件は必ず起こる。想定内の事件にはマニュアル通りに対応できるが、想定外の事件には当事者か責任者が速やかにかつ適切に対応せねばならない。マニュアル化できないことに対応することこそ責任者の仕事だ。
 そもそも物事が想定内に収まると考えること自体、とてつもなく傲慢な考えだ。想定可能な範囲が経験の範囲を超えることはまず無かろう。想定外に出会うことなく生きた人など一人もいない。
 理念は常に事実によって修正されるべきだ。理念に拘泥すれば事実を見誤る。原発の安全神話はその最たるものだ。危険な施設だけに安全であって欲しいと希望し、それが歪んで「安全である」という盲信へと変質する。
 初めて自動車を運転する時には充分に注意していても、慣れれば携帯電話を片手に運転するようになるようなものだ。これは熟練ではない、危機意識の喪失だ。

外部電源

2011-04-15 15:08:13 | Weblog
 7日の余震で外部電源の重要性が改めて指摘されているが、随分曖昧な報道が続いている。例えば宮城県の女川原発の外部電源は何系統あるのだろうか。2系統とも3系統とも4系統とも報じられている。
 件の福島第一原発にはどんな外部電源が何系統あったかについてはこれまで何も報じられていない。私は3月29日付けの「致命的欠陥」に書いたとおり、すぐ傍を通っている東北電力からの電源は無かったと考えている。茨城県からわざわざ東京電力の電気を引いていたと思う。今では東京電力と東北電力の2系統の電源があるようだ。
 米農家が米を買うだろうか。建設会社が自社ビルの建設を他社に依頼するだろうか。発電所が他社から電気を買うだろうか。発電所にはタダ同然の膨大な電力があるからだ。
 他社から電気を買うよりも自給自足をしたほうが圧倒的に低コストだ。安全性を軽視して経済合理性を追求するなら、たとえ目の前を通っていようとも他社の外部電源を使うことなど無駄遣いでしかない。しかしこれは危険を伴う合理化だ。
 「送電鉄塔が地震で倒れたため外部電源が失われた」と東電は説明したが、倒れたのは茨城県から遠路はるばる原発に繋いでいた東電の送電鉄塔のことだろう。送電距離が長ければ被災の可能性は高まる。
 3月18日の配電工事を思い出して欲しい。あの工事はどう見ても新たな敷設工事であって復旧工事ではなかった。それまで使っていなかった東北電力のケーブルを引いていたと思われる。今でも剥き出しのケーブルが原発敷地内を通っていて放水車などの作業用車両の障害物となっている。