聖書によると禁断の果実を食べた罰として女には「苦しんで子供を産む」こと、男には「一生苦しんで地から食物を得る」ことが課されたとされている。(「創世記」より)
ところで日本人の男は働かなくなった。若年の男がニートとして親に依存しその後は生活保護受給者となる。これで一生働かずに済む。一方、女は出産をしなくなった。近い将来、出産しない女性が半数以上を占めることになるかも知れない。これらはある意味で神罰からの解放だ。働く苦しみと産む苦しみから解放されることは神罰から逃れるという意味を持つ。
私は決して「男は働け、女は産め」と言いたい訳ではない。むしろ逆に、働かないことと産まないことを自然な欲求と認めたい。何しろ神から与えられた罰からの解放なのだから。働くことや産むことを奨励するためには何らかの動機付けが必要だ。インセンティブが無ければ働かないし産まないものだという認識から出発すべきだ。
人は社会的動物だから社会参加をしたがるとか女には母性本能があるとかいった神話を捨てて、働くことや産むことの意義が見出されねばならない。もしそんな意義が見つからないなら、働かないことも産まないことも個人の自由だろう。
但し実際のところ、産まない自由はともかく、働かない自由は国民の権利として認められている訳ではない。働かない自由を満喫した人に国民としての生存権が認められることには矛盾を感じる。
ところで日本人の男は働かなくなった。若年の男がニートとして親に依存しその後は生活保護受給者となる。これで一生働かずに済む。一方、女は出産をしなくなった。近い将来、出産しない女性が半数以上を占めることになるかも知れない。これらはある意味で神罰からの解放だ。働く苦しみと産む苦しみから解放されることは神罰から逃れるという意味を持つ。
私は決して「男は働け、女は産め」と言いたい訳ではない。むしろ逆に、働かないことと産まないことを自然な欲求と認めたい。何しろ神から与えられた罰からの解放なのだから。働くことや産むことを奨励するためには何らかの動機付けが必要だ。インセンティブが無ければ働かないし産まないものだという認識から出発すべきだ。
人は社会的動物だから社会参加をしたがるとか女には母性本能があるとかいった神話を捨てて、働くことや産むことの意義が見出されねばならない。もしそんな意義が見つからないなら、働かないことも産まないことも個人の自由だろう。
但し実際のところ、産まない自由はともかく、働かない自由は国民の権利として認められている訳ではない。働かない自由を満喫した人に国民としての生存権が認められることには矛盾を感じる。