俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

集団登校

2012-05-01 15:22:35 | Weblog
 集団登校中での交通事故が相次いだ。4月23日の京都での事故の後、27日には千葉と愛知でも事故があった。集団登校が却って大事故を招くという意見もあるが、弱者は集合したほうが安全だ。多分、数学的に証明できるだろうとは思うのだが、如何せん大学入試以来のブランクがあるので私の手には余る。
 「とかくメダカは群れたがる」という言葉があるように弱い動物は群を作る。魚だけではなく鳥も草食哺乳類もそうだ。群を作れば誰かが生き残るという消極的な効果だけではなく、敵に遭遇しにくいという積極的な効果がある。散らばっているよりも集まっているほうが捕食されにくい。
 敵による攻撃ではなく事故の場合はもっと明らかだ。100mの道に10人の子供が分散していれば車の運転手は常に緊張を強いられる。一方、10人が1箇所に集合していれば運転手はそこだけに注意を集中できる。事故の起こる可能性は大幅に下がる。四方八方から小石を投げられるよりも一方から大きな石を投げられたほうがかわし易いのと同じようなことだ。
 たまたま集団登校での事故が相次いだが、集団登校は安全性を高める。集団登校を避けて個別に登校すれば犠牲者は増えるだろう。

落し物

2012-05-01 15:08:17 | Weblog
 金を拾う人と落す人はどちらが多いだろうか。少なくない人が自分の経験から「拾うことのほうが多い」と考えるだろうがこれは誤りだ。落とした金が拾われないことはあり得るが、落されなかった金が拾われることはあり得ない。従って落とされた金のほうが遙かに多い。
 こんな錯覚が生じるのは、拾うことは意識的行為であり、落すことは意識外での行為だからだ。落とした時に気付いていれば真っ先に自分が拾うだろう。落し物をして警察に届ける時に一番困るのは「どこで落としたか」という問いだ。どこで落としたか正確に分かっていれば警察になど届けずに自分で探す。
 同様に、幸運を摑むことよりも幸運を見逃すことのほうがずっと多いだろう。幸運を摑んだことは意識されるが、本来は幸運である筈のものが見逃されても殆んどの場合、気付かれない。一生の大半は幸運を見逃すために使われているとさえ思える。
 しかし「当たりたいなら買うしかない」という宝くじのCMを肯定しようとは思わない。射幸心を煽る巧みなコピーだとは思うが全く不合理だ。「救われたいなら祈りなさい」とか「ボロ儲けしたければ賭けるべきだ」といった理屈にどれだけの人が賛同するだろうか。可能性の低いことを恰も可能性の高いことのように偽るからこれらに乗せられた人は不幸になる。

無罪

2012-05-01 14:53:50 | Weblog
 4月26日に小沢一郎氏に対する判決があった。結論は無罪だがその内容は限りなく黒に近いグレーだった。これを単純に無罪判決と考えるべきではない。判決文は「小沢はんは悪いことを仰山やって嘘ばっかり言うとるけど証拠が足らんのやから有罪にはできへん」と書いてあるように思える。無罪判決でありながら小沢氏の悪事を多数指摘している。これでは「○○氏が盗んだことは明白だが検察の取り調べに不備があるので無罪とする」という判決と同じようなものだ。疑惑は晴れたどころか認定されたとさえ言えよう。
 小沢氏は刑事責任を免れたが「無実」とされた訳ではない。無実と無罪は全然違う。政治資金規正法の欠陥と推定無罪の原則に基づいて無罪とされただけであり判決文に従うなら無実ではなく「有実」だ。刑事裁判で無罪とされた人が民事裁判で有罪とされることは少なくない。今回の裁判で無罪とされたことで禊が済んだと考えるのは余りにも軽率だ。
 裁判では偽証罪は無いが国会の証人喚問には偽証罪がある。司法が偽証を認めているのだから立法府でそれを検証すべきだろう。しかし、だからこそ小沢氏は喚問に応じまい。確実に政治生命を断たれるからだ。