俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

扶養控除

2012-08-07 14:17:08 | Weblog
 少子化が問題になっている。生活保護受給者の増加も問題になっている。もしかしたらたった1つの対策でこの2つの全然関係の無さそうな問題が解決されるかも知れない。それは扶養控除を拡大することだ。
 私は40代から両親を扶養親族として仕送りをしていた。税制上このメリットは小さい。扶養しようとしまいと納税額は殆んど変らない。もしこれがもっと目に見える形で控除されるなら、親を扶養する子供はもっと増えて、高齢の生活保護受給者が減るのではないだろうか。
 育児は大変だ。育児には金も手間も掛る。せめて金の負担だけでも減ればもっと手間を掛けることができる。バラ撒きの子ども手当ではなく扶養控除額を拡大したほうが子育ては楽になるのではないだろうか。
 人間は貰う場合は敏感だが、サラリーマンは給与明細上での税金の増減には鈍感だ。だから政府はバラ撒きと同時に増税をしようとする。政府は増税とバラ撒きを同時に行って大衆を誤魔化す。これを逆転させるべきだろう。バラ撒きをやめて控除の拡大をすべきだろう。野田首相や財務省はこんな考え方を認めないだろうが、このほうが国民にとっても国にとっても良いのではないだろうか。

痛覚

2012-08-07 14:05:49 | Weblog
 痛みは感じ過ぎても感じ足りなくても不都合だ。痛みを感じることは絶対に必要だがどの程度感じるべきかは微妙な問題だ。怪我をしても痛まなければ傷めた場所を庇わないので傷を悪化させてしまう。
 とは言え痛みを感じ過ぎることも支障が大きい。少しの傷で耐えられないほどの痛みを感じることは動物として大きな弱点となる。野生動物は痛みに強いと言われるが、痛覚が鈍いと考えても良かろう。
 痛覚は諸刃の剣だ。鈍過ぎれば傷に気付かず、敏感過ぎれば痛みに負ける。痛みは警鐘なのだからその役割に留まるべきだろう。鼓膜に有害なほど大きな音の非常ベルが必要ないように、生存に有害なほどの激しい痛みを知覚する必要は無い。
 人類の痛覚は敏感過ぎるようだ。気を失うほどの痛みなど本来感じるべきではない。痛みで気を失ったら捕食される可能性が高まるからそんな痛みを感じることは動物としての欠陥だ。捕食されないという状況が長く続いたために変な進化を遂げたようだ。

保険

2012-08-07 13:51:57 | Weblog
 健康保険は高所得者ほど負担額が多い。しかし多く負担した人が厚遇される訳ではない。多く負担した人の医療費自己負担額が3割ではなく1割になる訳ではないし、特別な最新医療を受けられる訳でもない。他人よりも多く負担した分は掛け捨てになる。逆に健康保険の負担額が少ない高齢者が保健制度の恩恵に与っている。
 年金保険も同じような仕組みにできないものだろうか。現行制度では多く積み立てた人が多く受け取る仕組みになっているが、多く積み立てる人は所得が多く貯金も多い。つまり年金の必要性が少ない人だ。こんな人に多くの年金を支払うから後の世代の年金が足りなくなっているのではないだろうか。
 とは言え健康保険並みに「超平等」にすべきとは思わない。そんなことをすれば年金保険を納めない人が今よりも増えて酷いことになる。納めた保険料に見合う年金は保証した上で、国による割り増し分で差を付ければ良かろう。割増額を1割から10割まで差を付けて低所得者を優遇すれば年金格差は縮小するし国の負担も軽減される。それでいて健保とは違って高所得者であろうとも払い損になることは無い。