俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

非常時

2012-08-10 15:32:17 | Weblog
 マスコミでは報道されなかった話だが、東日本大震災の時にこんなことがあったそうだ。津波から避難しようとした人々がビルに集まった。ビルの上層階へ逃れようとするのだが老人の多くは動きが鈍く体力も乏しい。階段の途中や踊り場に座り込む人が続出した。その老人達を突き飛ばし蹴散らして駆け上がった若者がいたそうだ。
 多くの人はこの若者を非難するだろうが、私は非難できない。非常時にこの若者と同じような行動をしないとは到底断言できないからだ。一刻を争う事態なのだから誰でも無駄なことに時間や労力を割きたくない。突き飛ばしたりせずに通れるなら当然そうするだろう。隙間を通れないからぶつかりながら駆け上がらざるを得なかったのだと思う。
 ガードレールのある歩道を3人並んで歩いていたら追い越すことは困難だ。急いでいる人にとっては迷惑だが彼らは平気だ。誰であろうと周囲に対する配慮があって然るべきだ。非常時に途中で休憩することは本人の勝手だが、後から来る人が通れる隙間を空けるぐらいの心配りは必要だ。

3R

2012-08-10 15:18:09 | Weblog
 日本人は廃棄物対策としてすぐにリサイクル(recycle)を考えるがこれは根本的に間違っている。リサイクルは第3の対策でしかない。まず取り組むべきことはリデュース(reduce)で次がリユース(reuse)、どちらもできない時に初めてリサイクルが浮上する。最初から第3の対策を目標にしていれば廃棄物処理問題は歪められてしまう。
 一番大切なのはリデュース、つまりゴミを作らないことだ。例えばカップ麺は商品容積とほぼ同体積のゴミになる。こんな商品を作るべきではないし買うべきでもない。ところが日本ではカップ麺の市場は今でも拡大している。如何に日本人が環境意識を欠いているかを象徴する事実だ。
 リユースは再利用だ。レジ袋はゴミ袋として再利用すれば良い。新しい袋にゴミを詰めることは資源の浪費だ。
 リデュースとリユースは「勿体ない」の精神にも通じる正しい環境対策だ。それに対してリサイクルは実は環境破壊に繋がることが少なくない。リサイクルのための回収作業や再生処理は環境に大きな負荷を与える。リサイクルが有効なのはアルミ缶ぐらいであり、大半の廃棄物は燃やして熱エネルギーとして利用することがベストだろう。

親不孝

2012-08-10 15:08:14 | Weblog
 親不孝な子を嘆く親がいる。しかしそれは誰の責任だろう。子の責任は少ない。本人はそうなりたくてなった訳ではなく、そうなるように育てられただけだろう。学校にも責任は無い。少なくとも「親不孝しなさい」と教える教師は皆無だろう。では誰の責任か、勿論親の責任だ。
 こんな寓話がある。
 ある所に下手な陶芸家がいた。彼は思い通りの作品を焼き上げることができず毎日「この出来損ないどもめ!」と罵りながら自分の創った陶器を叩き割ってゴミの山を築いていた。しかし責任が問われるべきなのは作品ではなく彼の技量ではないだろうか。
 この寓話のオリジナルはニーチェで神と人間についての話だが、親子についても同じことが言える。親不孝な子を嘆くよりも、そんな子に育ててしまった自分を責めるべきだろう。自分の落ち度を棚に上げて子供の出来の悪さを子供の責任にしようとするような姿勢が親不孝な性格を育んだとさえ言えよう。