俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

免疫型

2013-08-14 09:42:57 | Weblog
 当初の人類は全員がO型だったようだ。今でもグァテマラでは95%、ボリビアでは93%がO型だそうだ。このことからインディオはO型しかいない民族だったと推定できる。
 インディオの先祖は、10,000年以上前の氷河期に海水面が下がって、ユーラシア・アメリカ間がアリューシャン列島で地続きになった時に移住したモンゴロイドだと考えられている。つまりその頃は血液型(=免疫型)は一種類しか無かったのだろう。
 免疫とは自己と他者を識別するシステムだ。自分以外の物質が体内に入ると有害物として攻撃する。ところが擬態する病原体が現れた。O型抗原と類似した構造を持っていれば異物と認知できない。さてどうすれば良いか。自分が変われば良い。O型類似物質を異物として排除する免疫構造になればO型抗原に擬態した病原菌を排除できる。こうしてA型とB型がアジアで誕生したらしい。
 同じ免疫型(=血液型)であれば特定の感染症によって絶滅する恐れがある。異なった免疫型を持つことによって人類は多様性を獲得した。
 ここで疑問が生じる。O型から進化した筈のA型やB型がなぜO型よりも感染症に弱いのだろうか?
 実は最強の免疫型の筈のO型にも弱点がある。O型はペストとコレラに弱い。ペスト菌とコレラ菌はO型抗原に擬態しているからだ。ペストやコレラが大流行すれば絶滅する恐れがある。そこで他の感染症には弱いけれども、比較的ペストに強いA型とコレラに強いB型が生まれたのではないだろうか。A型はペスト対策でありB型はコレラ対策という訳だ。
 ある免疫型が総ての感染症に強ければ申し分無い。しかし病原体は頻繁に変異を繰り返すのでそれは不可能だ。異なった免疫型を揃えることによってどれかが生き残れるように仕組まれているのだろう。完全なものが不可能な場合、多様化によって最悪を回避するという戦略は自然が編み出した素晴らしい叡智と言えるだろう。

エスカレータ

2013-08-14 09:07:13 | Weblog
 JR東日本ではこの夏からエスカレータ上を歩かないよう呼び掛け始めたそうだ。全く賛同できない。これまでどおりの「片側空け」が良いと思う。駅では急ぐ人がいる。急ぐ人のために便宜を図ることは鉄道会社として当然の義務だろう。もし止まる人の権利だけを認めるのなら、歩行する権利を求めて歩行専用のエスカレータの設置を要求したい。あるいは全く逆に歩けない構造の椅子式「イスカレータ」の新設でも構わない。
 私が「歩行禁止」に憤りを感じるのは排除の論理が潜んでいるからだ。歩きたくない多数者が歩きたい少数者を悪とする、これは煙草追放と同じファッショ的発想だ。共存つまり異なる他者の権利の容認ではなく排除を狙うこと、これは多数者の我儘の放任だ。
 エスカレータ上での事故はJR東日本だけで年間250件起こっていると言う。だから「急ぐなら階段を走れ」と言うのなら無茶苦茶な理屈だ。実は階段での事故はエスカレータより遥かに多い。4月には当のJR東日本の藤沢駅の階段で転んだ男性が下にいた女性に衝突して死亡させたとして書類送検されている。
 奇妙な話だが階段での事故は自己責任で、エスカレータでの事故なら管理責任が問われる。こんな変なルールになっているから管理責任から逃れようとする。ずるい話だ。
 私は階段が嫌いなので極力エスカレータかエレベータを使う。多分エスカレータでの移動距離のほうが階段使用距離よりもずっと長いと思うが、エスカレータの事故は未だ見たことがない。逆に階段での事故なら何度でも目撃した。友人も兄弟も階段で転げ落ちた。
 エスカレータの速度は歩行速度とほぼ等しい。だからエスカレータ上を歩けば移送人数は2倍、移動時間は1/2になる。移送効率を考えるなら歩くことを推奨しても良い筈だ。それを責任逃れのために止まらせるのは本末転倒だ。このあたりがお役所的発想だ。
 エスカレータは全然危なくない。そのことは年間250件しか事故が無いことが証明している。その250件も多分、大半が不適切な使用によるものだろう。安全なエスカレータの使用を制限して危険な階段を使用させようとする姿勢は責任逃れ以外の何物でもない。