俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

平和主義

2013-08-24 10:01:32 | Weblog
 孫子は諸子百家の兵家に分類されているために、彼を只の兵法家だと誤解している人が少なくない。確かに「彼を知り己を知れば百戦して殆(あや)うからず」といった戦術論も説いている。しかし彼の理想は「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」であり「戦わずして勝つ」を極意とする。戦えば必ず国力を損なう。だから戦いは極力避けるべきだと主張する。彼は現実的平和主義者であり、日本にウヨウヨいる「平和、平和」とお題目のように唱えていれば平和になるという妄想を持つ空想的平和主義者とは大いに異なる合理主義者だ。
 窮地に陥った時、動物は二者択一を迫られる。闘争か逃走か、だ。戦後の日本は一貫して逃走を選び続けた。「謝罪せよ」と言われたら土下座をして、領土を実効支配されても「領土問題は存在しない」と訳の分からないことを言い続けた。これでは只の事勿れ主義だ。逃走一辺倒だ。
 従軍慰安婦は「性奴隷」とされ、南京では当時の人口を上回る30万人が虐殺され、絶対不可能な百人斬りまでが史実扱いされている。当時のペラペラの軍刀では2人も斬れば刃こぼれと血糊で使用不可能になっただろう。これらは正に「戦わずして負けた」歴史だ。「戦わずして勝つ」が最善策であるように「戦いを放棄して負け続ける」ことは最愚策だ。
 ヤクザに弱みを見せれば付け込まれてますます酷い目に会うように、ヤクザ国家の言いなりになっていたらどこまでも歴史は歪められて国益は損なわれる。
 孫子が言うとおり武力は下策だ。武力など使わなくても幾らでも闘争することはできる。ガンジーの非暴力闘争という模範例もある。主張すべきことを主張せずに逃げ回っているから国民は誇りを失う。正しい歴史を知っているのが誰であるかは言うまでも無い。大嘘のプロパガンダを黙認していた日本政府の責任は重い。

民主主義

2013-08-24 09:26:35 | Weblog
 民主主義と宗教は相性が悪い。民主主義は「どちらも正しい」であり、宗教は「これだけが正しい」とするからだ。先進国でのみ民主主義がそれなりに上手く機能しているのはキリスト教という枠内に留まっているからだろう。中東情勢を見れば分かるように、イスラム教やユダヤ教が関わると民主主義は途端に機能不全に陥る。お互いに自分が正しいと主張し合うからだ。
 民主主義とは多数決だと思っている人がいるが、私は全く逆に民主主義の「鬼っ子」だと思っている。民主主義の弱点を補完するための苦肉の策だと思う。
 何かを決めるためにお互いに意見交換をする、ここまでは民主主義だ。ところがお互いが正しければ結論は出せない。これでは何も決められない。そこで取り敢えず決めるための方便として多数決が使われる。しかしこれはあくまで暫定的な結論であって、やってみて不都合があれば再度多数決をして見直しをする必要がある。
 昔の修学旅行は常に団体行動だった。かつての農協ツァーのように旗のうしろをゾロゾロと歩いたものだ。最近では目的地での自由行動がかなり認められているようだ。随分「民主的」になったと思う。
 多数者の意向に少数者を従わせることは全く民主的でない。これは多数者による横暴だ。可能な限り個人の自由を尊重して、多数決で決めるのは必要最小限に留め、しかも見直しの余地を残すべきだ。これは定例会議のようなものだ。毎回何らかのことを決めるが次回では再評価をする。QC活動のPDCAサイクルにも似ている。
 多様な意見の共存を認めるのが民主主義だ。できるだけ個人の自由を認め、どうしても拘束する必要がある場合にのみ苦肉の策として使われる非常手段が多数決だ。ソクラテスもガリレオ・ガリレイもダーウィンも少数派であったために虐げられた。多数決はしばしば間違った結論を下す。