俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

自由主義者

2016-10-03 09:59:03 | Weblog
 自由主義者は自分の自由だけではなく他者の自由も重視する。そうでなければただの我儘な利己主義者に過ぎない。その意味で、リベラル(liberal)と呼ばれる人々は自由主義者らしくない。明らかに全体主義的な傾向が色濃く見られるし、自分達の考え方に同調しない人を差別的に扱う排他的傾向も顕著だ。私は日本のリベラリストの主張に自由の欠片さえ感じたことが無い。彼らの理想はliberty(自由)でもrepublic(共和国・共和党)でもなく「人民共和国」なのではないのだろうか?
 自分の自由と他者の自由は必ず対立する。どこでその折り合いを付けるかが、リベラリストとリバタリアン、あるいはその他の社会思想との最大の違いになる。リベラリストは自分達の生活を快適にするために秩序を強制しようとする。特定のルールを普遍的な規則に祭り上げようとする。不気味なことに彼らが信奉するルールは大半が昔、学校で教え込まれた規則の延長線上にある。子供の頃に授かった知識を疑わずにそのまま正しいルールであると信じ続けている。正直な話、彼らはニヒリズムによる洗礼を受けていないから思想として浅薄であり幼稚だ。世界平和のためには「皆が仲良くなえば良い」と考え、犯罪を無くすためには「貧困を無くすべきだ」と信じている。民族暴動を見て「もっと話し合わねばならない」と口走る姿を見れば、怒りを通り越して軽蔑のレベルに到達する。こんな現実離れをした理想など全く無意味であるということにさえ気付かない。リベラリストは「リベラル系」と呼ばれるマスコミの報道だけを盲信する。彼らにとって好ましい情報が満載されているからだ。マスコミとリベラリストは事実ではなく綺麗ごとを軸にして密接に繋がっている。
 リバタリアンは普遍的価値の存在を信じない。食べ物の嗜好が異なるように、生き方の基準も人それぞれが違うとして、全員が守るべき、あるいは全員に守らせるべき規則も必要最小限であるべきだと考える。実は私の本音は、日本ではなぜか余り紹介されていないリバタリアンに近い。その一方で同じ「自由主義者」である筈のリベラリストには殆んど共感できない。
 私は個人の自由を尊重するからこそ洗脳を毛嫌いする。誤った情報によって人を誤った方向へと導こうとするマスコミはオウム真理教のマインドコントロールとほぼ同じだ。
 思考することを放棄して考えない人を私は軽蔑する。良い(善い)・悪いは本来、自分でじっくりと考えるべきことだ。そのための努力を怠ってマスコミや権威を盲信する人は主体性を失っており独立した個人ではなく群集の一部を占める構成物に過ぎない。
 自由には責任が伴う。自分の意思に基づいて行うのだから総てが自己責任になる。自力による判断を放棄して他人の言いなりになって総ての責任を他人に押し付ける人は無責任だ。自由を貫くためには常に責任が伴う。自由を放棄して他者の指示に従っていれば責任を免れられるがこれは奴隷が自分のことを自由人と思い込んでいるのと同じような妄想だ。言われたとおりにやる人を私は信じない。自分なりに工夫をして、言われた以上のことをやる人が自由人だ。
 先天的に群居動物であるからこそ私は極力他人には干渉しないし干渉されたくもない。社会の隅っこで自分らしい生活を営めるなら、彼らの我儘ぶりも我慢する。
 リバタリアンとリベラリストの明白な違いは、前者なら自分の自由を守るためであれば自分の権利を制約することも辞さないが、後者は他人の自由を侵害してでも自分の権利を拡大しようとすることだろう。前者の特徴を一言で表せば「寛容」であり、後者の特徴は「平等化」だろう。