俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

リバタリアン(1)

2016-10-08 09:53:49 | Weblog
 リバタリアンという言葉は余り知られていない。バタリアンとそのパロディであるオバタリアン、あるいはベジタリアンとそのパロディのジベタリアンのほうがずっと認知されているのではないだろうか。
 正直な話、私もまたリバタリアンについてはよく知らない。10年近く前に「リバタリアン宣言(朝日新書)」という入門書を読んで以来興味を持ってはいたが、この著書は哲学書と言うよりは経済学書に近く、しかもこれまでは他の適切な文献にも余り巡り会えなかったために勉強が進展していなかった。だから私のリバタリアニズムについての理解は主にロールズやサンデルのような政治哲学者によるリバタリアン批判に対する反論として勝手に考えたことが大半を占める。私がこれまでにリバタリアニズムについて論評したことは主にリベラリズムに対する批判が目的であり余り深く考えられていない。勿論体系立てて説明できるレベルにも達していない。とは言え借り物の考え方ではない分だけ地に足が付いていると評価できるだろう。
 経済学や現代史のような殆んど手付かずだったジャンルについての勉強もある程度進んだのでそろそろリバタリアニズムについての勉強を始めようかと思っていた矢先に発病してしまった。発病後は思考力や理解力が低下したばかりか机に向かうための体力や精神力まで不充分になった。ここしばらくは投稿する記事も、殊更目新しいものではなくこれまでの知識を食道癌患者の立場から見直した内容が大半になってしまった。
 ところが成り行き上、リバタリアンについて触れてしまうとそのまま放置できなくなってしまった。他人のためではなく自分のためにもう少し詳しく知りたくなった。死ぬまでの時間は余り多く残されていないから出し惜しみをしていれば書けるレベルに到達する前に死んでしまうということもあり得る。思想として自分なりに熟成していない時点での執筆は不本意ではあるがやむを得ない。
 しかしいざ文章にしようとするとこれが随分書きにくいテーマであることに気付かされた。消化不良だからだけではなく慣れ親しんだヨーロッパ系の哲学や日本の常識とはかなり違った発想に基づいているから術語の説明をするだけでも一苦労をする。何とも難しい条件下での執筆ではあるがここは老骨と言うよりむしろ病骨に鞭打ってこのシリーズを書き上げたい。初めから「シリーズ」と銘打っているのは内容が新奇でしかも私の知力が低下しているからだ。コンパクトに纏めることなど到底期待できそうに思えない。全然熟成していないから書いている間に主旨が変わってしまうかも知れないような記事で申し訳ないが、時間的制約と現在の自分の能力を考慮すれば書きながら考えを深めて行く以外の方法は今の私には難しい。
 記事を小出しにする理由は3つある。勉強中のテーマだから未だ纏まっていないこと、長時間連続して執筆するだけの体力と精神力が欠けていること、そして最近パソコンの調子が悪くて執筆の途中で原稿が飛んでしまうことが時々あるからだ。1000文字を越え始めると消失することが怖くなって気が散り始めるという情けない状況だ。
 決して出し惜しみをしている訳ではないのだから数か月掛けて分散して掲載することをお許し願いたい。