人類は今後かなり短期間で随分賢くなれるのではないだろうか。これは数万年掛けての進化のような気の長い話ではない。僅か数十年のことであり、その間に人間の学習能力が飛躍的に向上できると期待する。
研究において出典探しに要する時間は半端ではない。根拠を記すための文献漁りは大変な作業だ。たった1つのデータを探すために何日も掛かることなどザラであり、その煩雑さから孫引きなどによる弊害が無数に発生している。それはまるで伝言ゲームのように歪み続ける。一旦誤った情報が拡散してしまえばそれを正すことは容易ではなく、巷だけではなく学会にまでその誤った情報は氾濫する。しかしインターネットの普及によってこの状況は革命的に改善されつつある。
自分自身のことを振り返っても何と無駄なことに多くの時間を割いていのかと思うと嫌になる。できるものなら失った時間を取り返したいとさえ思う。研究は文献探しから始まる。主要な文献を入手しなければ何も始まらない。この文献探しが大変だった。現代のようにネット上で探すことなどできなかったから古本屋巡りに一体どれだけの時間を割いていただろうか。
運よく本を入手できても読解に負けず劣らず重要な業務があった。いつでも引用できるように整理しておくことだ。天才的な記憶力の持ち主であれば原典を正確に記憶できるかも知れないが、私のような凡人には抜き書きのノートが頼りだった。そしてそのノートを整理し続けていなければすぐに使い物にならなくなってしまった。
この不自由さには研究者だけではなく知恵や知識を求める市井の人の総てが辟易していただろう。最も時間を取られたのは本調査ではなくそれ以前の予備調査だった。調査だけで膨大な時間を要することが誰にも分かっていたから誰もが少しでも手抜きをしようとしてたとえ俗説かも知れないと思っても利用せざるを得なかった。だから嘘やハッタリしか取り得のない人が不当に高い評価を得た。
現代人はパソコンやスマホを使ってこんな大変で無駄な作業を瞬時で終えることができる。ネット情報の便利さを理解できない人はこれらを「便所の落書き」と酷評したがるがそれは以前の情報事情を知らない人だ。今も昔も情報は味噌糞混合の状態であることに変わりは無く、誤った情報が淘汰されるのに要する時間は今のほうが圧倒的に短い。ネット上の情報のほうが20年前の文献情報よりも却って正確なのではないだろうか。
情報がいつでも・どこでも・無償で入手できるという素晴らしい環境があるのだから、人は嘘やデマに振り回されずに正しい情報を取捨選択できる。こんな状況を上手く利用できれば人は以前とは比べられないほど簡単に聡明になれる。知識が知恵のレベルにまで高められて初めて学識と言えるのだがこれまではただの情報通が「知識人」と名乗って跋扈していた。こんなガリ勉型秀才の努力もそれなりに意味があろうが彼らは決してクリエイティブではない。学者に限らず一般の市民も情報探しに使う無駄な時間が激減するのだから、この状況を生かせるだけで人々は尽く現状よりも聡明になれるだろう。
研究において出典探しに要する時間は半端ではない。根拠を記すための文献漁りは大変な作業だ。たった1つのデータを探すために何日も掛かることなどザラであり、その煩雑さから孫引きなどによる弊害が無数に発生している。それはまるで伝言ゲームのように歪み続ける。一旦誤った情報が拡散してしまえばそれを正すことは容易ではなく、巷だけではなく学会にまでその誤った情報は氾濫する。しかしインターネットの普及によってこの状況は革命的に改善されつつある。
自分自身のことを振り返っても何と無駄なことに多くの時間を割いていのかと思うと嫌になる。できるものなら失った時間を取り返したいとさえ思う。研究は文献探しから始まる。主要な文献を入手しなければ何も始まらない。この文献探しが大変だった。現代のようにネット上で探すことなどできなかったから古本屋巡りに一体どれだけの時間を割いていただろうか。
運よく本を入手できても読解に負けず劣らず重要な業務があった。いつでも引用できるように整理しておくことだ。天才的な記憶力の持ち主であれば原典を正確に記憶できるかも知れないが、私のような凡人には抜き書きのノートが頼りだった。そしてそのノートを整理し続けていなければすぐに使い物にならなくなってしまった。
この不自由さには研究者だけではなく知恵や知識を求める市井の人の総てが辟易していただろう。最も時間を取られたのは本調査ではなくそれ以前の予備調査だった。調査だけで膨大な時間を要することが誰にも分かっていたから誰もが少しでも手抜きをしようとしてたとえ俗説かも知れないと思っても利用せざるを得なかった。だから嘘やハッタリしか取り得のない人が不当に高い評価を得た。
現代人はパソコンやスマホを使ってこんな大変で無駄な作業を瞬時で終えることができる。ネット情報の便利さを理解できない人はこれらを「便所の落書き」と酷評したがるがそれは以前の情報事情を知らない人だ。今も昔も情報は味噌糞混合の状態であることに変わりは無く、誤った情報が淘汰されるのに要する時間は今のほうが圧倒的に短い。ネット上の情報のほうが20年前の文献情報よりも却って正確なのではないだろうか。
情報がいつでも・どこでも・無償で入手できるという素晴らしい環境があるのだから、人は嘘やデマに振り回されずに正しい情報を取捨選択できる。こんな状況を上手く利用できれば人は以前とは比べられないほど簡単に聡明になれる。知識が知恵のレベルにまで高められて初めて学識と言えるのだがこれまではただの情報通が「知識人」と名乗って跋扈していた。こんなガリ勉型秀才の努力もそれなりに意味があろうが彼らは決してクリエイティブではない。学者に限らず一般の市民も情報探しに使う無駄な時間が激減するのだから、この状況を生かせるだけで人々は尽く現状よりも聡明になれるだろう。