俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

内臓の痛み

2016-10-09 09:49:03 | Weblog
 残念ながら出典が分からないが「心の痛みは体の痛みよりも耐え難い。体の痛みは一過性だが心の痛みはその後もずっと続いて苦しませる。だから体以上に心を労わるべきだ。」
 あるいは沢田研二さんのこんな名曲がある。「♪体の傷なら治せるけれど心の痛みは癒せはしない♪『時の過行くままに』」少し青臭い表現ではあるが心身の痛みの違いを上手く表現していると思う。
 私は大事故に遭って大怪我をした経験は無いが二番目に痛い疾病と言われる腎臓結石なら患ったことがある。そんな経験からも心の傷にこそ気を付けるべきだと考えていた。ところが心の傷にも負けないほど辛い痛みがあることに最近気付かされた。それは内臓の痛みだ。内臓の痛みから人は死ぬまで逃れられない。但し内臓の長期の痛みは大半が人工的な痛みだ。私は今食道癌で苦しんでいるが、普通の病人である間は食べられないだけで苦痛に悶々とすることなど無かった。抗癌剤による治療やステントの装着などによって食事をできるようにすることの代償として生涯続く痛みを受け入れさせられることになった。正直な話、この苦痛は想定以上に辛い。
 体の痛みに耐えられるのはいつか快復できるという希望があるからではないだろうか。明日は今日よりも良い日になると確信できれば明日が楽しみになるが、もっと悪くなると予想されるなら希望を持つことは難しく痛みに耐えることも一層虚しくなる。心と体と内臓のそれぞれの痛みを経験した立場に立って改めてこれらを再評価するなら、内臓の痛みが最も耐え難い。心の痛みなど内臓の痛みを前にすればすっかり消し飛んでしまいそうにも思える。心の痛みなど実は大した痛みではなく贅沢な悩みに過ぎなかったとさえ酷評しそうになる。
 追い詰められた人はどんどん低レベルへと退行する。これはマズローが「欲求分類」で説いた欲求の高次元化とは全く逆の進展だ。今後自分がますます「貧すれば鈍する」を実践することになると思えば一層自分の未来に希望を持てなくなる。高邁な理想に基づいて生きられるのが元気な間に限られるのなら堕落する前に死んでしまったほうが、辛い思いや醜態を晒したりせずに済む分だけ、本人のためにも周囲のためにも良いことなのではないかと思うことさえある。