俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

味覚と栄養価

2016-10-07 10:36:40 | Weblog
 食べることによって得られる喜びは大きい。食べることが最大の生甲斐である人さえ少なくない。私自身も癌細胞によって食道が塞がれてしまった時に、吐いてしまうことを覚悟した上で食べたことがある。たとえ嘔吐という苦痛を招き栄養として全く役に立たないと分かっていても美味という快楽に浸りたかったからだ。1回限りのことであれば多少の苦痛に耐えてでも食べようとするのは味覚がもたらす快感がそれだけ大きいからだろう。
 7月の下旬に食道にステントを装着して食道をこじ開けた状態のまま保っている。それ以来嘔吐することは無くなった。しかしこのことによって食事を存分に楽しめるようになった訳ではない。1日中鈍痛が続いており食後しばらくは更に強い不快感に苦しめられる。全く不本意なことだが鎮痛剤が生活必需品になってしまった。
 こんな異常な状況は食欲の本質を探るために有効だ。延命策に頼るまでは食べたいが吐いてしまうという状況だったが今では吐かないけれども苦痛が続くという状況に変わった。私の対応はどう変化しただろうか?
 食欲は4つに区分できると思う。①旨い物が食べたい②空腹を満たしたい③健康と長寿のために役立てたい④文化による特殊な適応。これらが複雑に絡み合って欲求行動が選択される。
 通常であれば④以外は矛盾しない。進化の過程で栄養価が味覚に指示をして調和させるからだ。健康のために有益でしかも入手し易い食物を「旨い」と感じる人が生存のための適者でありそんな人々が増殖するからこそ健康食と美食が一致した。しかし進化によって作り出された調和は文化によって意外なほど簡単に崩されてしまう。現代社会においては「栄養価が低い」を「ヘルシー」と呼ぶような明らかに誤った言い換えであっても強引に定着させることができる。
 私のように食べることが苦痛になった人は食べることによって得られるメリットに基づいて優先順位を付けることになる。多分それは①命と健康を良好な状態にするための高栄価食品②美味しいと感じる物、となりそれ以外はごく軽視されることになる。だからこれらが食欲の本質なのだろう。
 この場合の高栄養価も一般常識とはかなり異なったものになる。重視されるのは5大栄養素ではなく4大栄養素、つまり蛋白質・脂質・ビタミン・ミネラルであり糖質は対象外だ。糖質は3大栄養素どころか5大栄養素にさえ含まれない。10年以上という長期でならともかく、5年以内に糖質が特別な栄養素として働くという事例は未だ嘗て確認されたことが無かろう。ではなぜ糖質が3大栄養素に紛れ込むような誤った思い込みが定着してしまったのだろうか?
 進化の仕組みから考えて、生命維持と生殖に役立つ食物は「旨い」と判定され有害な物は「不味い」と判定される筈だ。もしそう判定されないような異変が起こったならそれは動物の進化に背く重大な変異が起こったことが原因であり、人類に起こったそんな異変の正体とは「農業」だろう。文明による環境変化が自然によるものよりも激烈であることは決して珍しくない。
 文明はしばしば自然と対立する。文明の進歩が多くの病気から人々を救ったが、その一方でグローバル化によって感染症は世界中に蔓延した。人類と病気との関係が多面的であるように糖質と健康の関係もまた多面的であらざるを得なかったものと思われる。
 人類にとって糖質のメリットとは何か。生産性と保存性が高いことだろう。農業によって安定的に糖質を入手できるようになったからこそ人口は爆発的に増加した。逆に言えば糖質に対する過大評価を共有し続けない限り、地球は現在の人口を維持できないというとになる。
 人口を維持するために人類は糖質食を奨励した。それと同時に大変な努力を注ぎ込んで糖質文化を磨き上げた。パスタ類が世界各地の料理を代表するのは澱粉食こそ民族を守るために最も重要な食物だったからだろう。糖質においてのみ栄養価と味覚が一致しないのはこれが人類が文明つまり反自然的な営みとして意図的かつ大々的に行った価値転換策だったからだろう。