俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

尺度

2016-10-04 09:55:37 | Weblog
 世間は一元的評価を好む。人類に評価する能力が不足しているせいか、評価する能力に対する不信感が強いからなのか分からないが、妙な尺度を作ってそれに基づいて評価をしようとしては失敗を繰り返している。この尺度はジャンルごとに作られ妙に流行り・廃れがありかなり恣意的に使われ勝ちだ。
 知能指数や偏差値は割と良くできた尺度だと思うが、差別を許すまいとする人々の圧力によってかなり限定した使用方法以外は許されていない。知的障害者を優遇することが目的でなければ余り大っぴらには使えない尺度だろう。
 カロリー論は社会に浸透しているだけに最も迷惑な一元論だろう。すっかり死語になってしまった「滋養が高い」と比べて何とか辛うじて定義されている分だけマシなのかも知れないが、科学の体裁を取り科学であるかのように装っているから害を及ぼす範囲も広くなる。栄養学を批判する人は必ず真っ先にカロリー論を批判するように胡散臭さ満載の理論ではあるが、科学に対する知識の乏しい女性から圧倒的な支持を得ているから最早覆すことは困難だ。こんなオカルト的な理論を中心に据えていれば栄養学そのものまでオカルト扱いされかねない。
 BMIも昔の「身長-100⁼体重」と比べれば遥かにマシな尺度ではあるが、健康を守るためには良くない。手足が長くて頭が小さければBMI値は小さくなること、あるいは筋肉と贅肉を区別しないことは、この数値がいかがわしいものであることの根拠にもなり得る。
 不快指数という概念は近年殆んど使われていないが、気温と湿度を一括するそれなりに便利な尺度だと思う。なぜ使われなくなったのか私は知らない。
 果物の評価に「糖度」という言葉が最近しばしば使われるようになった。しかしこれは果物の質を低下させる悪しき尺度であり早急に廃止すべきだろう。果物の質は様々な味が複雑に絡むことに基づいて評価されるべきであり、今後糖度ばかりを競っていれば、甘いだけの不味い果物の開発が促進される。それはかつて日本酒業界が犯して日本酒離れを招いた過ちの再現だ。料亭などで芸者などの女性向きの甘口の清酒が持て囃され始めるとそれに反発した酒好きが辛口を高く評価した。こんな低次元な甘辛競争をしている間に日本酒はその命とも言うべき「旨み」を見失った。ソムリエが清酒の魅力を再評価するまで日本酒は低レベルの酒という酷評に晒されることになってしまった。
 美女の評価も難しい。かつてはバスト・ウェスト・ヒップのバランスが重視されたものだが、最近では無視され勝ちだ。現時点では主観的な好き嫌いを勝手な基準で点数化してそれを単純に加算することによって辛うじて客観性を装っているだけだ。
 殆んどの一元的評価が失敗しても人はその尺度を諦めようとはしない。これは「便利だから」の一言に尽きるだろう。人の単純な頭脳には直線的な一次元評価が最も向いており平面的な二次元評価でさえ広く共有されない。例外は期待値であり庶民には余り理解されないまま広く秘かに応用されている。しかしこれは愚かな人から金を巻き上げる手法として悪用され勝ちであり、愚民化よりも啓蒙、実用性よりも広範な理解のほうが望ましい。