俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

先富論

2010-02-16 16:28:19 | Weblog
 かつて中国の小平氏は先富論を説いて「豊かになれる者から先に豊かになれば良い」として改革開放政策を推進した。日本もこの賢者を見習ったらどうだろうか。
 近頃流行りの結果の平等主義は日本を衰退させる。社会主義が理想とした結果の平等とは「経過の不平等」だ。つまりよく働いても余り働かなくても平等な結果になるのだから誰も働かなくなった。これが社会主義国の崩壊に繋がった。
 「世界で唯一成功した社会主義国」とか「社会主義国以上に社会主義的」と日本が評価されたのは「経過の平等」が実現されたからではないだろうか。才能や努力が正当に報われたから知恵を出せない者は汗を流して1億総中流とまで言われた理想的な社会を築いたのではないだろうか。
 運動会では手を繋いでゴールする、と言われた頃からこの国はおかしくなった。たまたま今日のバンクーバーオリンピックのスピードスケートの500mで長島選手が銀メダルを加藤選手が銅メダルを獲った。競争があるから栄光がある。競争を避けたら堕落が待っている。
 知恵も汗も出さない者に対する優遇は知恵や汗を出す者に対する冷遇になる。これはゼロサムの関係だ。知恵や汗を出す者が正当に報われる仕組みの再構築が今の日本での優先課題であり、知恵も汗も出さない者の救済など二の次で良い。

痴漢の冤罪

2010-02-16 16:08:02 | Weblog
 痴漢の被疑者にされた人は大半が有罪になるそうだ。どうしてこんな酷いことになっているのだろうか。
 皮肉なことに有罪を立証することが困難だということが冤罪を招く原因になっているようだ。一般の刑事事件なら物的証拠は山ほど出てくる。ところが痴漢の場合、目撃者がいるか、被疑者の手から繊維か体液が検出しない限り客観的な証拠にはなり得ない。法律に従って審判をすれば殆どの被疑者が無罪になってしまう。これでは女性の安全は守れない。そこで検察と裁判所は談合して、自白さえあれば有罪にできる有罪推定という超法規的措置を採ったようだ。証拠が無いことが普通なのだから自白だけでも充分だという理屈だろうがここに落とし穴があった。警察は自白捏造のプロだからだ。
 死刑や無期懲役になるような重罪でさえ虚偽の自白をさせるほどのテクニシャンにとって痴漢の如き微罪を認めさせることなど赤子の手を捻るようなものでしかない。絶対に調書に記録されることは無いが、警察は次のように「仄めかして」虚偽の自白を誘うそうだ。
 「認めたら罰金で済むぞ。認めなければ懲役刑だ」
 「認めたらすぐに釈放する」
 「認めたほうがトクだぞ」
 「いつまでもここにいたら会社をクビになるぞ」
 「一旦認めて娑婆に出てから裁判で争えばいい」
 こういった言葉に騙されて虚偽の自白をしてしまう被疑者は少なくないだろう。しかし一旦認めてしまえばそれを覆すことは非常に難しい(09年7月28日付け「自白の撤回」参照)。また地裁判決の有罪率は99.9%だから裁判に訴えても、金ばかり掛かるだけで徒労に終わる(09年7月15日付け「99.9%」参照)。こうして冤罪の被害者は大量生産される。
 冤罪の罠から身を守りたいなら、絶対にその場凌ぎの虚偽の自白をしてはならない。 

歩行の達人

2010-02-12 15:20:56 | Weblog
 休日や昼間にターミナルの駅構内を歩くと普段とは全然違うということに驚く。とにかく歩きにくい。ぶつかることは無いがしばしば立ち止まらされる。
 普段、つまり通勤時に駅構内を共有するメンバーは、4月以外は、歩行の達人ばかりだ。達人はお互いに凄いスピードで歩きながら相手の動きを読んでいる。殆んど知覚困難なほど微妙な動きから相手がどちらに動こうとしているかを予測する。次々に擦れ違う不特定多数の初対面の人々を相手にしているのに正確な判断を下して驚異的なほどスムーズな流れを作る。視覚で捕え得る総ての情報を使って最適の進路を選んでいる。ルールが無いにも関わらず秩序がある。人間には凄い能力があると感心する。人込みの中で毎日足早に歩くからまるで一流アスリートのようなこんな能力が培われるのだろう。
 休日の駅構内は全然駄目だ。ダラダラ歩く、斜めに歩く、横並びで歩く、余所見をする、躊躇する、変な場所で立ち止まる、判断力が乏しい、腕を前後に振って歩く、キャリーカートのアームを長く伸ばす、等々。熟練していない歩行者と一緒に歩くことは難しい。通勤時のような快適でスピーディな歩行は不可能だ。

時持ち

2010-02-12 15:06:24 | Weblog
 時間は誰にでも平等に与えられている。一日は誰にとっても24時間であり、どんな権力者や大金持ちでもこれを25時間に増やすことはできない。量が変えられないなら質が問われる。つまり如何にして質の高い時間のシェアを高めるかということが課題となる。質の高い時間を増やして質の低い時間を減らせれば時持ちになれる。
 私にとって質の高い時間とは思索、読書、議論、スポーツなどだがこれは全然万人向きではない。何を重要と考えるかは多分に個人の趣味の問題だろう。一方、何が無駄かはかなりの普遍性を持つ。
 一番の無駄は不本意な労働だろう。生活のためには金が必要で、金を稼ぐためには働かざるを得ない。しかしどうせ働くなら少しでも自分を向上させる仕事に従事したいものだ。奴隷やギリシャ神話のシジフォスのような労働は忌避したい。
 次に避けたいのは闘病だ。これは重い病と闘うという意味に限らない。例えば風邪を引いて数日間を無為に過ごすことなどは人生の無駄遣いと思える。それを未然に防ぐためには健康管理には充分に注意する必要がある。
 この2つを実現できれば、金持ちにはなれなくても時持ちにはなれる。時持ちになってから何をやるかはあとで考えても構わない。時持ちにさえなれれば考える時間はたっぷりあるのだから。

死刑執行人

2010-02-12 14:44:27 | Weblog
 死刑制度に対する支持率は年々高まっている。内閣府の調査では昨年の死刑容認率は史上最高の85.6%に達したそうだ。凶悪犯罪に対する不安が支持率を高めているようだ。
 しかし死刑が国による殺人であることは否定できない。そして死刑を執行するためには誰かが実際に手を下さねばならない。つまり命じられて死刑囚を殺す人が必要となる。職務として殺人の命令を受けた人にそれを拒絶する権限は無い。
 死刑執行人の罪悪感を薄めるために、絞首台の踏み板を外すボタンは3つ設けられており、それを3人が同時に押す。こうすることによって本当の執行人が誰であったのか分からないようにしている。しかし多分3人共、自分の押したボタンで死んだと思うだろう。
 ボタンを押すのは刑務官の仕事だ。つまり毎日死刑囚と顔を合わせて会話を交わしていた刑務官が死刑執行人になる。
 ここに大きな疑問を感じる。人は顔を合わせていると立場に関わり無く連帯感を持つ。中には悔悛した死刑囚の高潔な人格を心から尊敬する刑務官もいるそうだ。
 なぜ生活空間を共有する刑務官に死刑を執行させねばならないのか。いっそのこと被害者の遺族にボタンを押す権利を与えたらどうだろうか。
 アメリカの一部の州では被害者の遺族が死刑執行の現場に立ち会うことが認められているそうだ。希望する遺族に死刑執行の権利を与えれば少しは気持ちの整理もできるのではないだろうか。これは刑務官の心の負担の軽減にもなるのだから一石二鳥の名案だと思うのだがどうだろうか。
 肉を食べるためには人が必要なように死刑制度を存続させるためには死刑執行人が必要だ。職業として人を殺さねばならない国家公務員がいるという事実から我々は目を逸らしているのではないだろうか。

不登校

2010-02-09 14:02:19 | Weblog
 現在、小学校で275人に1人、中学校で36人に1人、高校で56人に1人が不登校だそうだ。トータルでは100人に1人ぐらいだろう。この事実から学校というシステムの問題性が問われている。
 しかし100人に1人しか不登校が出ないということは実はスゴいことではないだろうか。学校制度の支持率は99%だ。これは発足直後の鳩山内閣の支持率を遥かに上回る驚異的な数値だ。たとえ東京ディズニーランドやゲームセンターでも1%以上の子供が「行きたくない」と駄々をこねるだろう。僅か1%の不支持を根拠にして制度を見直すなど暴挙ではないだろうか。こんな見直しは改善ではなく改悪にしかならない。
 私は決して1%の人を切り捨てて良いと考える訳ではない。1%の少数者には違った対応をすれば良い。エジソンは殆ど学校に行かなかった。それで良い。学校へ行かない者を無理やり行かせる必要は無い。通信教育などその子供に合った教育を与えるべきであり、増してや集団生活に馴染めない少数者に合わせて学校を変えるべきではない。そんなことをすれば今度は現状での適応者が不適応者になってしまう。変に制度をいじれば違ったタイプの不適応者を生むだけだ。99%で充分だ。

健康増進法

2010-02-09 13:45:25 | Weblog
 平成15年の健康増進法の施行以来、喫煙者は肩身の狭い思いをしている。来年の春には従業員が受動喫煙に会わないことを企業に義務付ける法律が提出されるそうだ。
 そんな法律が実施されたらどうなるだろうか。居酒屋や特急の喫煙席を通る店員や車掌にはガスマスクでも着けさせるのだろうか。そんな馬鹿なことはできないから、結局、全席禁煙ということで収まるのではないだろうか。
 健康増進法は表向きは喫煙を禁止する法律ではない。しかし「受動喫煙」という概念を明文化することによってこの概念が一人歩きして禁煙活動に向かうことは容易に予想できる。分煙により喫煙者と嫌煙者の共存を図るようなスタンスを取りながら、実は社会から煙草を追放することを目論んだ狡猾な法律だろう。
 この法律にはもう1つ大きなトリックがある。「健康は国民の責務」とされていることだ。これは奇妙な条文だ。なぜなら憲法第25条には「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と明記されている。ところがこの法律では健康を権利から義務へと摩り替えている。つまり国民の権利=国の義務の筈の国民の健康が国民の責務つまり自己責任に変えられてしまった。
 国民が健康な生活を送るためには社会や労働環境などの整備が不可欠だ。この事実を無視して自己責任に摩り替えるのは悪法であり憲法違反だとさえ言える。こんな法律を社会に定着させてしまえばいずれ「国民は文化的な生活を営む義務がある」という理念に基づいた法律まで作られかねない。

美と金

2010-02-09 13:30:28 | Weblog
 男は美を好み、女は金を好む。「逆じゃないか」と突っ込まれそうだがこれが真の姿だろう。
 配偶者の選択において男は女の美しさを最優先する。人格や知性や家柄は二の次だ。美しさは健康の証でもある。ガリガリに痩せた女や肥満体の女や皺だらけの女を男は好まない。ウェストがくびれたメリハリの効いた体形の若くて元気な女を好む。
 男のこの嗜好に合わせて、女は若く美しく見えるように努める。そうしないと伴侶を得られず子孫を残せないからだ。
 前回(2月5日付け「シンデレラボーイ」)でも書いたことだが、女は権力者や金持ちが大好きだ。そのために男は権力と金を獲得しようと努力する。権力と金を得た男は成功者として美しい伴侶を得る。
 社会的動物である人間にとって他者による評価は重要だ。自分で自分に下す評価よりも他者による評価のほうが実用性は高い。他者に高く評価してもらうためには、自分が如何なるものかであるよりも如何に見えるかが重視される。
 こうしてどんな自分で「ある」かよりもどんな自分に「見える」かを重視する、つまり内面を磨かずに外面ばかり取り繕うから人間はどんどん薄っぺらく表面的になる。これは性による淘汰が招く人類の劣化とさえ言えるだろう。

未亡人

2010-02-05 16:51:29 | Weblog
 夫のほうが妻より年上という傾向は世界中で共通らしい。そうなる理由は社会的な事情もあるが、男性は若い女性が好き、女性は男性より早熟なので同年代の男性では物足りないということが大きな原因ではないだろうか。
 但し、夫が妻より年上であることは困った老後を招く。女性のほうが長寿な上に年下なのだから、大抵の妻は夫を亡くした後かなり長い期間を未亡人として一人で生きねばならない。
 しかしこれも必ずしも悪いことではないようだ。夫を亡くした妻は長生きし、妻を亡くした夫は早死にするらしいから、夫が先に死ぬということは国民の長寿に貢献しているとも言える。
 ところで敢えて未亡人という言葉を使ったがこれは酷い言葉だ。「未だ亡くならない人」とはどういうことか。「夫が死んだのだから早く死ね」という意味だろうか。こんな言葉の使用は慎むべきだろう。代わりに後家とか寡婦とかやもめを使えば充分に事足りる。
 マスコミは様々な禁止語を決めている。中には「なぜこの言葉が?」と驚くような言葉が規制されている。私は決して言葉狩りには賛同しないが、未亡人という失礼な言葉の使用は自粛したほうが良いように思う。

日系ブラジル人

2010-02-05 16:32:45 | Weblog
 日系ブラジル人による日本での犯罪に対して我々日本人は一方的に非難することはできない。なぜなら日本という国は彼らを2度も騙した加害者だからだ。
 一度目は彼らがブラジルに渡る時だ。当時の日本政府はまるで無限の耕地があるかのように喧伝して移民を奨励した。しかし耕地は与えられず、奴隷に等しい過酷な労働に甘んじるか、荒地やアマゾン川流域を開拓するかしか選択肢は無かった。一世の多くは日本を恨みながらその地に骨を埋めた。
 二度目は日本に対する恨みの薄れた二世・三世に対する処遇だ。日本は少子高齢化に対処するため日系ブラジル人を労働者として優先的に受け入れた。豊かな祖国での豊かな暮らしを夢見て来日した彼らに日本は何をしたか。不況になれば、派遣労働者よりも先に、言葉と文化の異なる彼らを切り捨てた。
 彼らはブラジル人だから日本人としての権利は無い。そのためセーフティネットに摑まることもできず、一挙に最貧者となった。地縁も血縁も無い彼らは、かつて同僚だった、そして彼らと同様に解雇された日系ブラジル人同士で助け合うしか無かった。たとえ多少悪いことをしてでも。なぜなら彼らを悲惨な境遇に追い込んだのは日本という国だ。日本に彼らが復讐をすることを日本人の誰が咎められよう。
 日本人は外国人に冷たい。日本人さえ良ければそれで充分だと考える。安易に外国人を輸入して真っ先に切り捨てる。看護や介護が足りなくなればフィリピン人やインドネシア人を輸入して、景気が悪化して日本人の雇用が確保できそうになったら掌を返すように追い出そうとする。外国人は日本人の雇用の調整弁でしかないのか?