俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

資産の偏り

2011-02-15 16:05:56 | Weblog
 昨年の10月に発表された総務省の家計調査によると日本人の純資産の98%を世帯主が50歳以上の家庭が持っているとのことだ。
 世帯主が50歳代の家庭は全世帯数の19.7%を占めて純資産の18%を持つ。60歳代は24.2%を占めて純資産の43%を持つ。70歳以上は21.0%を占めて純資産の37%を持つ。合計すれば64.9%を占める50歳以上の世帯が98%の純資産を持っているということになる。
 勿論、統計上のトリックもある。この資料は世帯ごとの純資産を世帯主の年代別に集計しているから世帯主以外の資産まで世帯主の資産と見なされている。例えば60歳の世帯主と30歳の息子がいる家庭では息子の資産まで世帯主の資産として計算される。とは言え女性のパラサイトシングルならともかく、独立していない30男の資産など大したものではなかろう。
 40歳代以下の純資産が少ないのはローンのせいもある。住宅ローンの残高が多ければ純資産はマイナスになるからだ。
 それらを考慮しても酷い偏りぶりだ。金持ちの老人と貧乏な若年・中年層という構図になっている。この貧乏な若年・中年層に高齢者を経済的に支援させることは無理があり過ぎる。
 高齢者の貧富の差は大きい。貧しい高齢者を支援すべきなのは貧しい若年・中年層ではなく資産家の高齢者ではないだろうか。
 もう1つ驚かされるデータがある。遺産の相続人の平均年齢は67歳だそうだ。これは亡くなった被相続人ではなく相続する人の年齢だ。つまり資産は老人から老人へと回るばかりで若い世代がそのお零れに与ることは殆ど無い。これでは社会が活性化する筈が無い。

年金

2011-02-15 15:47:45 | Weblog
 日本の公的年金制度は現役世代が納める年金保険料を高齢者への年金の支払いに使う賦課方式を採っている。少子高齢化が進むと納付者が減り受給者が増えるので、年金制度を維持するためには、年金保険料を上げるか年金支給額を減らすかどちらかということになる。しかし年金保険料を上げると現役世代の負担が過大になるし、年金を減らせば生活できない老人が増える。
 どちらを選ぶこともできないから現在では不足分を税金で補っている。このことが歳入不足を招き増税論へと繋がる。しかし増税は現役世代と年金受給者の双方に新たな負担を強いることになる。これでは最少不幸社会ではなく最多不幸社会だ。
 年金の支給額が多過ぎる。納付額の何倍もが支給される賦課方式ではなく納付額に見合った年金が支給される積立方式への切り替えが急務と思われる。そうしなければ年金はいつまでも国営ネズミ講に頼ることになって社会矛盾は解消されない。
 老人の多くは実は資産家だ。国民の資産の8割を60歳以上の老人が握っている。こんな資産家のために現役世代が「老人の奴隷」となることが公平な社会だろうか。
 積み立てをしなかった無年金の老人はどうなるか。これは自業自得だ。年金保険という相互扶助制度に参加しなかった人に年金を支給する必要は全く無い。年金という制度の外にいた人が只乗りすることなど認められない。それは健康保険料を払わない人に健保を使わせたり、生命保険に入っていない人に保険金を支払うような理不尽なことだ。貧困老人問題は高齢者の雇用や社会保障として対処すべき課題であり、年金制度に紛れ込ませようとすることがそもそも間違っている。
 

吉野家

2011-02-11 14:46:51 | Weblog
 先日、吉野家に立ち寄ったところ「2階に上がれ」と言われたので立ち去った。
 1階には空席が3つほどあった。それなのに2階に上がれとはどういうことだろうか。客に不便を強いることを何とも思わない無神経さに腹が立った。
 階段の昇り降りが好きな人は誰もいない。足に負担が掛かるし落下の恐れもある。もし同じビルの1階と2階に同じ店があれば1階の店のほうが圧倒的に流行るだろう。2階に上がることは肉体的にも時間的にも客に負担を強いるからだ。
 もしかしたら吉野家のマニュアルには「1階の空席が3つ以下になったら極力2階に案内せよ」と書かれているのかも知れない。外から見える1階が満席になっていれば立ち寄りにくくなるからだ。
 しかしもしそんなマニュアルがあれば即刻修正すべきだろう。アルバイトから社長にまで登り詰めた安部修二氏がそんな馬鹿なやり方を許すとは思えない。客に楽をさせるべく気配りするのが小売業の常識であって店の都合で客に不便を強いるのは商道に反する。極力便利な席を優先して、不便な席は予備と考えるべきだろう。
 この吉野家T店の隣には餃子の王将がある。この店には2階が無く代わりに地階があるが、1階が満席になる前に地階に案内することはまず無い。企業姿勢の違いを感じる。
 いつの間にか吉野家の売上高はすき家に追い抜かれてしまった。その原因はメニューや価格だけではなく、アルバイト任せで商売の基本を見失ったせいなのかも知れない。かつてデフレ社会のシンボルとまで言われた企業が何とも情けない姿を晒している。

憲法

2011-02-11 14:29:01 | Weblog
 義務教育という言葉があるせいか教育はしばしば義務と誤解されている。教育を受けることは権利であって義務ではない。憲法26条には「教育を受ける権利を有する」ことと「保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ(条文のママ)」と記されている。つまり義務を負うのは親であって本人にとっては権利だ。
 投票も権利であって義務ではない。「投票は国民の義務ですから」とテレビの街頭インタビューで答える人を見掛けるがこれは放送局が国民に誤った意識を持たせようと企んでの情報操作をしているとしか思えない。
 実は憲法上での国民の義務は3つしか無い。先の「教育を受けさせる義務」以外には勤労と納税だけだ。しかも勤労は「すべて国民は勤労の権利を有し、義務を負ふ(第27条条文のママ)」とされており教育と同様に権利でありかつ義務でもある。と言うことは憲法上での一方的な義務は納税だけだ。
 憲法には責任という言葉も少ない。たまに出て来ても「責任を問はれない(条文のママ)」と否定的に使われることが多い。
 一方、権利という言葉は嫌と言うほど出て来る。権利だらけで義務も責任も乏しいのが我が誇るべき日本国憲法だ。日本人が権利ばかりを主張して義務や責任から逃れるようになったことの一因はこの歪んだ憲法にもあるだろう。
 第1条(天皇)や第9条(戦争の放棄)は」政治問題なので云々したくないが、この権利と義務・責任のアンバランスや一部に見られる旧仮名遣いぐらいは見直したいものだ。

薬のリスク(4)

2011-02-11 14:09:36 | Weblog
 薬を沢山飲んでいる老人は短命で、薬を余り飲まない老人は長命だそうだ。この事実については2つの解釈が可能だ。
 1つは、病弱な人でも薬のお蔭で老人になるまで長生きできると、いう解釈だ。もう1つは、薬は毒物であり多くを摂取したは早く死んでしまう、という解釈だ。
 私は後者だ。薬は体に異常反応を起こさせる毒物だ。副作用という言葉があるが副作用こそ「本作用」だ。薬の本質は毒であって「毒を以って毒を制す」のが薬の正体だ。
 薬(=毒)を長く飲み続けると薬依存体質になる。例えば血圧を下げる薬を飲み続ければ血圧を下げる体機能が低下する。歩かなければ足が衰えるのと同じ現象だ。こうして動物本来の機能が損なわれ、更にだんだん強い(危険な)薬に頼る薬物中毒状態になる。
 緊急時には薬を使わざるを得ない。副作用が強いステロイドは発作性気管支喘息の特効薬だ。発作が起こった時に速やかにステロイドを注射するだけで救われた命は少なくない。しかしステロイドを常用すれば確実に寿命を縮める。
 薬からのリハビリこそ必要だ。薬(=毒)を長期間服用すれば毒が体に溜まる。毒を溜めないためには薬の服用をできるだけ短期間で打ち切る必要がある。増してや複数の薬(=毒)を摂り続けた場合に体内でどんな化学反応が起こるのかなど誰も検証していないし予測することさえ不可能だろう。
 緊急時には薬に頼らざるを得ないとしても緊急時を脱したらできるだけ早く薬(=毒)を使わないようにすべきだ。薬(=毒)の摂取量を徐々に減らすべきであって長期の服用は百害あって一利無しだろう。薬(=毒)を飲み続けることは手術を毎日受けるのと同じくらいの危険性を覚悟すべきだろう。

黄金律(2)

2011-02-08 16:18:15 | Weblog
 痴漢が黄金律(「自分がして欲しいことを他人にせよ」)に基づいて行動したとは思えないが、無差別殺人犯は無意識の領域で黄金律に従った可能性がある。
 「死にたい」と考える人は同時に「人生はつまらない」と考えているだろう。人生が苦痛ばかりで何の楽しみも無いものなら「人生は生きるに値しない」という結論は決して間違ってはいない。そんなつまらない人生からの解放は一種の救済でさえあり得る。
 「つまらない人生に終止符を打つことは良いことだ。ボロボロの体で生にしがみ付いている人に最後の一押しを加えることは安楽死を与えるような慈悲でさえある」と彼は考えたのかも知れない。アメリカでの銃乱射事件の犯人の殆どが自殺しているのはこういう心理が働いていたからかも知れない。
 勿論この論理は間違っている。「人生はつまらない」と考えたのは彼であって被害者ではない。被害者は人生を楽しんでいる真っ最中だったかも知れない。
 従ってこの「殺して欲しい人は他人を殺してあげなさい」という命題はこう修正されるべきだ。「殺されたいと願う人は安楽死希望者などの殺されたがっている人を殺してあげなさい。」しかしこれもやはり変な理屈だ。
 痴漢ではなく婦女暴行犯の中には「原告は悦んでいた。従ってこれは強姦ではなく和姦だ」と主張する人がいるらしい。彼にとっては「嫌よ嫌よも好きの内」ということだろうか。しかし自分が気持ち良かったのだから被害者も気持ち良かったに違いないという理屈は無理があり過ぎる。感情も快不快も決定権は本人が持つからだ。

司法の責任

2011-02-08 16:04:20 | Weblog
 司法は責任を負わない。冤罪の責任を負わないしその責任を問う仕組みも無い。
 大相撲で八百長がはびこったのは99%司法の責任だろう。八百長疑惑を報じた週刊誌に名誉毀損として有罪判決を下したから八百長相撲は市民権を得た。もし司法が八百長疑惑に対してまともな判決を下していればこれほど八百長相撲は広がらなかっただろう。
 これまで証拠不充分として八百長疑惑を否定したことは正当だ。しかし名誉毀損として出版社に損害賠償を命じたことは誤りであり、このことが相撲界を増長させた。司法が認めたからどんな疑わしい相撲であろうとマスコミの批判に対して真相を究明せずに、名誉毀損として訴えることが可能になってしまった。
 疑わしきは罰せず、が司法の原則だ。八百長報道が名誉毀損と認めるためには八百長が無かったと証明する義務がある。八百長が無かったことを証明せずに名誉毀損を認めたことは司法の誤りだ。
 今回の八百長事件は相撲界だけの問題ではない。司法の大問題だ。これまでの八百長疑惑に対する名誉毀損判決を総て撤回すると共にこれまでの誤審について謝罪すべきだろう。八百長疑惑を報道できなくなったのは司法がそれを名誉毀損と認めたからだ。司法による言論弾圧こそ断罪されねばならない。司法が言論弾圧に加担したという事実は重く捕らえられるべきことだ。

老人の奴隷

2011-02-08 15:45:13 | Weblog
 もし正当に報われない労働を奴隷労働と呼ぶなら、現代の労働者は奴隷労働者だと言える。彼らは自分や家族のためではなく老人を養うために働かされる。労働者は企業による搾取だけではなく老人による搾取にも苦しめられている。税金も健康保険も年金保険も介護保険も将来の自分達のためではなく現在の老人のためのものだ。
 「次世代のために子ども手当てがある」などと言えるだろうか。財源無き支給は国債に頼っている。国債を償還するためには今後増税が必要になる。増税を負担させられるのは支給されて糠喜びした人々であって、これでは福祉ではなくサラ金からの借金のようなものだ。こんな制度を有り難がるのは朝三暮四の猿だけだ。
 老人は貴族のようなものだ。働きもせず遊び呆けている。現役世代はこんな老人を生き長らせるために命を削ってでも働かざるを得ない。
 老人に対する支援が手厚過ぎるのではないだろうか。働けない老人は保護されねばならないが働ける老人にまで年金生活を送らせようとするのは明らかに不合理だ。
 年金額は過大だと思われる。老人に必要な額を支給するのではなく現役世代が負担可能な額を支給すべきだろう。つまり「入るを量りて出ずるを制す」を原則としなければ現役世代の不満は治まらない。
 因みにアメリカには定年制は無い。年齢による差別が禁じられているからだ。能力に応じて給料が支給されるから能力の衰えた老人は自らの意志でリタイヤする。
 年齢だけを基準にして労働市場から追放するシステムは現役労働者の負担を拡大する。現役労働者を老人の奴隷にしないためには老人に働く場を与えて元気な老人の自立を促す必要がある。

八百長

2011-02-04 15:47:46 | Weblog
 悪事を働く人はそれが発覚しないように細心の注意を払うものだ。子供であれ暴力団員であれこのことは共通している。従って悪事を共謀する人は極秘裏に打ち合わせをする。証拠の残るメールを使うことなど本来あり得ない。
 ではなぜ八百長力士はメールを使っていたのだろうか。2つの理由が考えられる。①悪いことと思わなかった②日常的行為だった。
 ①についてはあり得ない。これまでに何度も八百長疑惑が取沙汰され八百長が悪いということは分かっている筈だ。
 すると②ということになる。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ということだろうか。つまり八百長はそれほど蔓延していたということになる。
 相撲は八百長がやり易いスポーツだ。個人競技でありしかも発覚しにくいからだ。野球と比べればそれは明々白々だ。
 野球は団体競技なので一人八百長は難しい。野手ならせいぜい全打席で三振して全守備機会でエラーをするぐらいしかできない。投手でもできることは限られている。棒球を投げても相手がヒットを打ってくれるとは限らない。確実なのは四球を乱発することだがそんなことをすればすぐに交代させられる。
 相撲の八百長は簡単だ。ほんの少し力を抜いたり下手な足捌きをするだけで簡単にいかにも自然に負けることができる。
 「無気力相撲」が厳しく取り締まられた時期があった。八百長の疑いがあるからだ。最近さっぱり聞かれなくなったのは無気力相撲が無くなったからではなく、疑惑を報じた週刊誌に対する勝訴が相次いだので相撲協会がマスコミを恐れなくなったからだろう。
 他人の褌で相撲を取る訳にはいかない。自ら褌を締め直して自浄を図らざるを得ない。

最小不幸人生

2011-02-04 15:34:51 | Weblog
 菅首相は「最小不幸社会」という理念が大好きなようだ。これを理想の社会と考えているように思える。
 そんな社会が良いかどうかは分からないが、私は「最小不幸人生」などを求めようとは思わない。不幸を最小化しようとすれば幸福も最小化されるからだ。
 人はどういう時に幸福を感じるか、苦難を克服した時だ。不幸があったからこそ至福を感じる。苦労もせずに手に入れた幸福などに興味は無い。そんなものは捨ててしまってもっと手に入れにくい幸福を追求したい。
 谷が無ければ山はあり得ないように影が無ければ光はあり得ない。影の無い世界とは薄暗いぼんやりとした世界だろう。そんな薄暗い世界よりも光に満ちた世界のほうが望ましい。
 最小不幸社会とは日本人総てが家畜化された社会だろう。誰一人として食い逸れしないが誰一人として幸福でない社会だろう。まるで動物園で飼育される野生動物のようであり、ニーチェが「ツァラトゥストラ」で予言した「お終いの人間」の社会の具現化とさえ思える。最近急増していると言われる草食系男子にとっては快適な環境かも知れないが私はご免蒙りたい。
 老人ホームで家畜のように養われるよりは何かに挑んで野垂れ死にしたほうがずっとマシだ。