俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

偽装

2013-11-20 09:32:32 | Weblog
 飲食店での偽装事件が相次いでいるが、よく考えればこれは当たり前のことだった。料理とは誤魔化しの技術だからだ。材料名や産地を偽ることは偽装だが、技術によって味を誤魔化すことは決して悪いことではない。二級の素材を使って一級の料理を作るのであればむしろ素晴らしいことだ。「美味しんぼ」の海原雄山のように最高の素材を最高の技術で調理すれば最高の料理になるだろうが、それは庶民とは関係の無い世界だ。普通の素材で旨い料理を作ることこそ望ましい。鮮度の落ちた魚をフライにして美味しく食べられるなら偽装ではなく技術だろう。
 当初騒がれた「鮮魚」について一言言いたい。漁師なら網の上でピチピチ跳ねる魚だけを鮮魚と考えるだろう。冷蔵なら鮮魚で冷凍なら鮮魚ではないというマスコミの基準はいつ誰が決めたのだろうか。偽装と非難するためには予め定義が無ければならないのに余りにもいい加減だ。あるいは飲食店の生簀の魚をどう評価するのだろうか。マスコミ、特にテレビなら「超新鮮」と評価するだろう。しかしこんな劣悪な環境下で既に半分死んでいる魚の品質は冷凍品以下だろう。鱗が剥げて憔悴し切った魚は単に未だ死んでいないというだけであって鮮魚ではない。
 改めて見直せば世の中は偽装だらけだ。ファッションなど総て偽装だ。飲食店の偽装を非難する女性は補整下着を着けていないのだろうか。カツラも植毛も偽装だろうし、故・金正日氏が愛好したシークレットシューズもハイヒールも偽装だ。マスコミはこんな偽装工作に加担している。
 偽装だらけなのだから嘘をつかない限りは偽装と騒ぐべきではない。「整形していない」と嘘を言わない限り整形していても偽装ではない。
 ところでこれまで問題にされていない悪質な偽装について指摘したい。スーパーなどには「蘇生庫」と呼ばれる本来「偽装庫」と呼ぶべき施設がある。ここでは萎びた野菜を新鮮であるかのように見せ掛けるために加湿している。当たり前の話だが野菜が蘇生することなど不可能だし鮮度が向上する訳でもない。ただ単に新しそうに見えるだけなのですぐに傷む。芯が腐ったキャベツやレタスがこうして客を騙して売られている。不良品を良品と偽って売るのだからこれこそ悪質な偽装だろう。なぜ誰も非難しないのか?

叱られて

2013-11-20 08:54:22 | Weblog
 もし成績が悪ければ叱られるなら、生徒は頑張ろうとするだろうか。頑張り甲斐のある人は頑張るだろうし、頑張っても無意味な人は頑張らないだろう。後者の場合、頑張っても「努力が足りない」と叱られるから不快さが二重になる。どうせ叱られるなら頑張らないほうが得だ。そしてこのことにはプライドを守る効果もある。自分の成績が悪いのは努力しないからであって頭が悪いからではないという自己正当化が可能になる。自分は「できない」のではなく「しない」だけだから、やろうと思えばいつでもできるという偽りの誇りを捏造して自分で信じ込む。
 日本人の学力は正規分布をせず、世界でも珍しい2こぶラクダ型になっているそうだ。この奇妙な現象の原因は成績下位者が努力を怠るからだ。努力をしても評価されないから努力することが馬鹿馬鹿しくなってしまう。
 能力とは先天性×後天性だと思うのだが、日本ではなぜか努力が総てであるかのような努力万能主義が好まれる。人が平等であるためには先天的な差があるべきではないと考えるからだろうが、こんな事実に背いた「べき論」は碌な結果を招かない。
 10の潜在能力を持つ人が5の力しか発揮しなければ努力不足だ。しかし6の潜在能力の人が5の力を発揮したら充分に努力したと評価すべきだろう。それを結果だけで努力不足と決め付けられればやる気が削がれて努力を放棄する。その結果として5の潜在能力の者が2、4の潜在能力の者が1の力しか発揮しない。潜在能力の低い者が努力を怠れば上位の者との差は開く一方だ。努力を正当に評価したければ、先天性の違いを認めた上で、その人の能力に応じてそれぞれの結果を誉めるべきであって、たとえ平均点以下であろうとも咎めるべきではない。先天性の違いを認めないことによる最大の被害者は成績下位者だ。弱者の立場を理解したい人こそ先天性の違いを充分に理解する必要がある。

誉める効果

2013-11-18 10:21:37 | Weblog
 誉める効果は過小評価され、叱る効果は過大評価されているように思える。
 得点が完全にランダムになる試験を想像して欲しい。サイコロゲームのようなものだ。サイコロを振れば1回ごとに1から6までランダムに数字が出る。しかし何度も振れば平均値は3.5に収束する。そんな試験だから平均点が50点になる。そしてこのことが最も重要なのだが、本人も周囲も努力すれば得点が増えると信じ込んでいるということだ。この試験で問題数が充分に多ければ全員がほぼ50点になる。しかし問題数が少なければ0点から100点まで正規分布する。つまり運が良ければ高得点になり、悪ければ低得点になるだけだ。
 こんな試験で30点を取った生徒がいたとする。本人は悔やむし親や教師からは叱られるかも知れない。そして次の試験では確率論のとおり、多分50点ほどの得点になるだろう。これは平均への回帰に過ぎないのだが、叱られた効果だと誤解される。
 70点を取った生徒がいたとする。彼は満足するし周囲からは誉められるかも知れない。しかし次の試験では平均へと回帰して50点程度しか取れない。誉めても効果は無かった、あるいは逆効果だったと誤解される。こんな経験を積み重ねるから、叱ることは有効で誉めることは無効だと思い込まれる。
 実際の試験結果は必ずしもランダムではない。しかし個人ごとに特定のゾーン内でランダムだろう。ある生徒は60点前後でランダムであり、他の生徒は40点前後でランダムだろう。上にぶれるか下にぶれるかは努力と運の両方が作用するが、運によって大きく左右される。こんな結果に一喜一憂している。
 完全にランダムな結果になる試験であれば努力してもしなくても結果は全く変わらない。それにも関わらず叱れば成績は上がり、誉めても効果は無いと誤解される。だから叱ることが過大評価される。
 こういう事情だから現代社会では誉める効果が過小評価されている。豚も煽てりゃ木に登るとまで言われるように誉められればやる気が高まる。それだけに誉めて育てる余地は大きい。誉められれば気分も良くなるから周囲まで明るくなって一石二鳥だ。

ヲタク

2013-11-18 09:45:01 | Weblog
 人類のオスは目で発情する。このことは猿であった時代からのことであり数千万年間継承された本能だ。まず発情したメス猿の尻が赤く腫れ上がる。これが発情期のサインでありそれに刺激されたオス猿が発情する。猿から進化した人類はこの特性を引き継いでいるから人類のオスは視覚を通じて発情する。
 視覚を刺激するものは必ずしも生身である必要は無い。映像でも充分だ。写真やビデオ、あるいは絵によっても発情する。
 絵は現実よりも美しい。現実の世界では美と醜が混在する。例えば現実の富士山はゴミだらけだが絵の富士山には塵1つ無い。同様に絵の女性は現実の女性とは違って醜を持たない。唯一の欠点はバーチャルであることだけだ。
 しかしバーチャルであることは致命的な欠点ではない。例えば小説や歴史の登場人物はバーチャルな存在だ。ナポレオンや織田信長であろうとも今、存在する訳ではないからバーチャルだ。それでも彼らの価値が損なわれる訳ではない。同様に漫画やアニメのヒロインに萌えても構わない。
 醜を持たない女性は美と醜を併せ持つ女性以上に魅力的だ。漫画やアニメのヒロインはAKB48の誰よりも美しい。ヒロインと比べればアイドルなんて汚物だらけの紛い物に過ぎない。アイドルの性器は醜いがヒロインの性器は花のように美しく芳香を放つ。
 しかしこれは所詮、幼稚なレベルに過ぎない。敢えて言えば猿のレベルだ。異性の魅力を視覚でしか理解していないからだ。肌触りという魅力もあるしそれ以上に大きいのはコミュニケーションでの魅力だ。
 私は行ったことが無いが銀座や北新地のホステスは美しいだけではなく、知的レベルも高いそうだ。勿論クズも混じっているだろうが、学問とは質的に異なった賢さを持つ人がいる。充分な教養を備えてしかも男性とは異なる思考回路を持った賢い女性との会話ではしばしば目から鱗が落ちる思いをする。必ずしも高いレベルでなくても質的に違うだけに面白い。漫画やアニメのヒロイン相手では絶対にこういう経験はできない。現実の女性には醜もあるが知恵もある。そのことを知らないから現実の女性をヒロインよりも劣ったものだと思い込んでいる。
 異性との交遊は知的な付き合いのほうが痴的な付き合いよりも楽しい。両方が同じ人によって満たされれば最高だ。

ジョンとポール

2013-11-16 10:53:33 | Weblog
 9日のNHKの「Songs」でポー・マッカートニーの新曲`New'を聞いた。残念ながらがっかりした。往年のような輝きは無かった。ジョン・レノンという天才と競っていたビートルズ時代の名曲とは比較にならなかった。
 ビートルズの作品の多くはレノン&マッカートニーによる共作とされている。なぜ解散に至るまでずっとこんな「偽装」を続けていたのか分からないが、共作は意外なほど少なく大半がどちらか個人の作品だ。私は67年の「ストロベリーフィールズ・フォレバー/ペニー・レイン」の頃から共作ではないことに気付き始めた。ビートルズというブランドの元でジョンとポール、そしてジョージ・ハリスンがそれぞれの自作を発表するようになっていた。
 そう気付いてから改めて聞き直してみたら66年の「ラバー・ソウル」あたりから殆んどが個人作になっていた。「ガール」と「ミッシェル」は明らかにジョンとポールのそれぞれの個人作品だ。65年の「イエスタデイ」がポール個人の作品であることは既によく知られていたが、63年の「オール・マイ・ラビング」もポールが一人で作った作品だった。どちらの作品なのかはかなり簡単に識別できる。リードボーカリストが作者だ。共作であればそれぞれのパートでボーカルが変わる。解散してからはジョンとポールの音楽性の違いが誰にも明らかになったが、それまでは多くの曲がレノン&マッカートニーの共作と思われていた。
 ポールの魅力はメロディメーカーであることだ。「イエスタデイ」や「レット・イット・ビー」などに代表される美しい旋律が持ち味だ。
 ジョンの魅力は今なお何と表現して良いのか分からないが敢えてリズムメーカーと言っておこう。シンプルでパワフルな曲にどんどん引き込まれてしまう。初期のビートルズの魅力はジョンの才能に負うところが大きい。「抱きしめたい」や「ヘルプ」などの初期の作品ではジョンの持ち味が遺憾無く発揮されている。
 この全く個性の異なる二人だったからこそ1+1=5という算術を超えた奇跡が実現した。最近ではこの二人は「和」ではなく「積」だったと考えている。つまり10×10=100だ。異なる才能が出会えば硝石と硫黄が出会った時のような化学反応による爆発が起こり得る。似た才能なら「和」にしかならないが異なった才能であれば「積」になり得る。
 

熱帯魚

2013-11-16 10:07:09 | Weblog
 13日夜のNHKのニュースで北海道の足寄町の「オンネトー湯の滝」に熱帯魚が棲み付いていると報じていた。温泉の湯が流れ込むために一年中暖かくてグッピーやティラピアなどが棲んでいるとのことだった。微笑ましい話題なのかと思っていたら全然違った。二酸化マンガンの生成に必要な藻を彼らが食べてしまうので駆除しようと環境省が躍起になっているとのことだった。
 「??」と思った。二酸化マンガンと藻がどう関係するのか分からないが、金に糸目を付けずに駆除に励んでいるようだ。川を干上げても失敗したので今度は巨大なパイプを作って湯の流れを捻じ曲げて凍え死にさせようとしているそうだ。
 意図がさっぱり分からない。そんなことをすれば肝心の藻まで死んでしまうだろう。二酸化マンガン云々の話など本当はどうでも良くてただ単に外来種を駆除したいだけとしか思えない。熱帯魚ではなく在来種でも同じように、藻を食べるという理由で駆除するのだろうか。
 思うに、「生態系を破壊する」といういつもの理屈が、在来種がいないために使えないから二酸化マンガンという妙ちきりんな口実を持って来たのだろう。環境省の外来種憎悪には鬼気迫るものさえ感じる。外来種撲滅が完全に自己目的化しているようだ。彼らがなぜこんなに外来種を毛嫌いするのかさっぱり理解できない。
 ふとイソップ寓話を思い出した。多少アレンジして紹介する。
 羊が川で水を飲んでいた。狼が下流に現れて言った「お前のせいで水が汚れる。」羊は狼が怖いので狼よりも更に下流へ行って水を飲んだ。すると狼がまた言った「お前のせいで水が汚れる。」羊が言い返した「私は下流にいるのだから水を汚しません。」すると狼は「つべこべ言うな」と言って羊を食べてしまった。
 教訓:悪い奴に筋を通そうとしても無駄だ。彼らの結論は初めから決まっているからだ。

水に落ちた犬

2013-11-14 10:44:13 | Weblog
 中国には「水に落ちた犬を打て(打落水狗)」という諺があるらしいが、最近のマスコミの報道姿勢を見ているとこの諺を思い出さずにはいられない。
 痛感するようになったのはJR北海道の報道からだ。そのあと島民を避難させなかった伊豆大島町長、そして食品偽装へと続く。悪の権化を攻撃してマスコミは正義の味方気取りだが弱い者いじめでしかない。反論できない弱い立場の者を寄って集っていたぶっているだけだ。その余りの醜さに反発して世論とは逆の記事を何度か書いてしまった。
 特に目に余ったのはJR北海道の時だ。勿論、人命を預かる鉄道会社が安全性を蔑ろにして良い訳ではない。しかし金も人材も施設も乏しく経営環境が劣悪な企業を袋叩きにしてどんなメリットがあるのだろうか。経営陣を総入れ替えしても全く無駄だ。金と人を何とかしない限り会社を潰す以外に選択肢は無かろう。それともこんなポンコツ企業を再生できるスーパー経営者が現れるとでも思っているのだろうか。そんな「プロジェクトX」のような夢物語などあり得ない。
 泥棒にも三分の道理と言われているが、不祥事を起こした側にも事情がある。元々、北海道での鉄道事業で利益が出ないことなど初めから分かっていた。企業としての収益性が求められれば、運営すればするほど赤字が膨らむ鉄道以外の駅ビルなどの事業を拡大せざるを得ない。そうすればますます本業が疎かになる。これでは八方塞だ。
 米の偽装をした三瀧商事は廃業した。こんな企業は跡形も無く消え失せても構わないがJR北海道はそうではない。北海道に電車が無くなって困るのは地元住民と国民だ。我々は中国人とは違って「思いやり」や「労わり」の心を持つべきではないだろうか。JR北海道に対してすべきことは非難ではなく支援だろう。攻撃すべき対象は100%出資者の政府であって政府に対して改善を求めるべきだ。政府に株主責任を果たさせるべきだ。JR北海道をトカゲの尻尾にさせてはならない。

風邪薬

2013-11-14 09:44:21 | Weblog
 薬が毒物であることは私の持論だ。薬学の教科書には必ず「副作用の無い薬は無い」と書かれているそうだ。その毒物の中でも最悪なのが風邪薬だ。不快な症状を緩和するだけの典型的な対症療法薬でありながらあたかも治療効果があるかのように宣伝している。治療効果も無いのに副作用だけがある薬なら薬ではなくただの毒物だろう。こんな物を売ることは犯罪的行為であり製薬会社とマスコミは共同正犯だ。
 昨日(13日)の毎日新聞の朝刊にはこんな記事があった。「市販薬による副作用は毎年250症例ほど報告があり、2007年度から11年度までに24人が死亡している。最も死者が多かったのは総合感冒薬(かぜ薬)の12人だった。」こんな文面が薬のネット販売問題の記事の中にサラッと紛れ込んでいた。私は呆れることを通り越して絶望感を覚えた。
 少なくとも毎日新聞はこの事実を知りながら無視していたと思える。もし新たに知ったなら大ニュースになる。総合感冒薬による死者は厚生労働省に報告があっただけでこの5年間に12人もいる。報告されなかった死者あるいは副作用ではなく風邪による死亡とされた人も含めればこの数倍か数十倍になるだろう。
 マスコミは子宮頸癌ワクチンによる副作用が数百件あったと騒ぐ。しかし私が知っている範囲では死亡例は未だ無い。こんな「軽微な」副作用を騒ぎ立てるのになぜ風邪薬の薬害については沈黙を守るのだろうか。私はマスコミの良心を疑う。巨大な薬市場の中で最大のものが風邪薬市場だ。派手に宣伝をするスポンサー様のご機嫌を損なわないために報道を自粛しているのなら許されないことだ。一体どれだけ鼻薬を嗅がされているのだろうか。
 製薬会社もマスコミも利益のためなら人命をも軽視する利潤至上主義の企業だ。偽装表示の飲食店よりも遥かに悪質だ。こんな連中には騙されず、風邪は安静・睡眠と栄養と体を温めることで治そう。薬は緊急時の一時凌ぎ以外においてはただの毒でしかない。
※コメント欄に毎日新聞の記事を添付しています。

気象津波

2013-11-12 10:11:59 | Weblog
 フィリピンを襲った台風30号の映像を見て初めて高潮の本当の恐ろしさを知った。それまでは、恥ずかしながら、かつてタイの工業団地を襲った大洪水程度のイメージしか持っていなかった。レイテ島を襲った高潮は4mの高さだったそうだ。これを気象津波と呼ぶことを今回初めて知った。気圧の低下による海面上昇に強風が重なって津波になるそうだ。海面が上昇するのだからそのエネルギーは地震の津波よりも大きくなる。地震の津波は海の一部の隆起だが気象津波では海そのものの隆起になるからだ。
 地震の津波であれば高台に逃れることができる。地震と津波の間にはタイムラグがある。地震が収まってから、あるいは津波情報が告知されてからでも避難できる。ところが気象津波は暴風雨の真っ最中に起こる。津波の危険を知って避難しようにも風速80mの暴風雨の中での避難など不可能だ。津波も暴風雨もどちらか片方だけでも恐ろしいのに同時に襲来されてはお手上げだ。事前避難以外には対処する術は無い。
 子供の頃のこととは言え、私は伊勢湾台風と第二室戸台風を経験している。第二室戸台風では台風の目も経験した。しかしこれらの台風と今回の30号は全然レベルが違う。中途半端に知っていることは却って危険なことだ。
 恐ろしい映像ではあるがマスコミは今回の災害の映像をできるだけ多く放映すべきだ。私と同様、日本人は台風を甘く見ている。地震の怖さは知っているが台風の怖さを理解していない。中心気圧が900hPa以下の台風に遭遇する可能性はマグニチュード8以上の地震の可能性よりも高いのではないだろうか。東日本大震災のトラウマで日本人は地震ばかりを警戒しているが、台風と気象津波に対する警戒を怠ればフィリピン以上の大惨事を招く恐れがある。

多様性

2013-11-12 09:44:03 | Weblog
 スポーツのルールは不公平だ。背の高い者・足の早い者が有利になるルールが殆んどだ。バスケットボールやバレーボールは背が高いだけでかなりの差が付くし、地上で行う限りどのスポーツであろうとも足の早さによるメリットは大きい。野球とサッカーは身長によるハンディが比較的小さくこの特性があるからこそ世界中で広く愛好されている。それでも足が早いことのメリットは大きく、あのイチロー選手でさえほんの僅か足が遅ければ大きく打率を下げるだろう。
 ではこれらのスポーツは「差別的」なのだろうか。そう考える人は殆んどいまいし、もし本気でそう主張する人がいるならかなり僻みっぽい人だろう。なぜなら人はそれぞれ異なるから楽しい。皆が同じ顔で同じ体型をしていればつまらない。お互いが違っておりその違いを認め合うからこそこの世は興味深い。
 差別を咎める人の多くは一元論者だ。例えば学歴社会を非難する人がいるとする。彼は学歴以外の要素を見ようとしない。彼は総て学歴のせいと考えるが実際には人格やコミュニケーション力なども大きな要素だ。
 美人ばかりが得をすると考える人がいるとする。彼女の基準は美人か不美人かだけだ。親切とか賢いとか仕事ができるとかいった重要な要素を見ようとしない。だから偏狭な一元論者だ。
 足の早い同僚とポジションを争うことになったらどうするだろうか。パワー、スタミナ、技術といった違った面を生かそうとするだろう。スピードで負けることは悔しいが他の要素で挽回することは可能だ。監督の立場でも違った個性の選手が揃っているほうが様々な作戦が立てられる。
 かつて読売ジャイアンツは各チームから強打者を掻き集めて強力な打線を作ったことがある。しかし小技の使える選手が足りないために却って弱いチームになってしまった。やはり多様性こそ好ましい。特定の個性だけを過大評価して羨むべきではない。自分の持ち味を正当に評価してそれを生かすべきだ。