俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

折り紙

2013-11-11 13:11:43 | Weblog
 トイレットペーパーを中国語では「手紙」と書くそうだが、中国共産党が大嫌いな私は逆らって「折り紙」として提案したい。
 子供の頃から折り紙に親しんだ日本人は指先が器用だ。この器用さを生かせばトイレットペーパーの使用量を減らすことができる。トイレットペーパーの削減を大真面目に考える人も教える人も殆んどいないだろうから、昨日(10日)はトイレの日(「いいトイレ」の語呂合わせ)だったこともあり、こんな馬鹿な話もたまには良かろう。なお以下の記述はウォシュレット式のトイレを前提とする。
 基本コンセプトは中央を厚く周辺を薄くだ。周辺部を3割減らして中央部を3割厚くすることを目論む。必要なのは中央部であり周辺部は余り役に立たないからだ。また1度拭いた紙を折り曲げて使う時に周辺部も使うがその際には厚さが2倍になるし尻も少し乾いているので当初薄くても充分役に立つ。
 具体策は3つある。
 まず巻き始めに角を折る。公衆トイレで見掛ける清掃終了サインのように折る。これで中央が厚くなる。もしかしたらあの三角折りは単に清掃終了を意味するのではなく、このまま使ってトイレットペーパーの使用量を減らしてくださいというメッセージなのかも知れない。
 次に心掛けることは、初めは小さく折って徐々に大きくすることだ。このことは誰でも自然にやっていることではあるが、それを明確に意図的に行う。このことも中央を厚く周辺を薄くするために有効だ。
 締め括りは巻き終えの時点だ。折り紙に親しんだ人は最後を綺麗に重ねようとするが敢えて7割程度しか重ねない。横箸まで最初から使うことは殆んど無いからだ。この3つを実践すれば多分現状よりも3割程度トイレットペーパーの使用量を減らすことができるだろう。

夫婦喧嘩

2013-11-11 09:54:24 | Weblog
 日本人には全く理解し難い習性が中国人と韓国人にはある。夫婦喧嘩を2人だけで争わずに周囲の人を巻き込むことだ。配偶者がどんなに酷いかを訴えて隣人の支持を得ようとする。同情した隣人が夫か妻の味方になって集団で相手を説き伏せるそうだ。
 私ならこんな行動を絶対に許さない。問題に関しては当事者間でしっかり話し合うべきであり「蔭でコソコソせずに、言いたいことがあるのなら直接言え!」と言って即刻離縁するだろう。
 実は日本人は昔から話し合いを大切にする民族だった。聖徳太子の十七条の憲法の第一条では「和を以って貴し」とした後に、上下の者が誠意を持って話し合えば必ず良い結論に到達できると続けている。清洲会議も織田家の後継者について民主的に話し合っており身分の高い者が結論をゴリ押しした訳ではない。
 残念ながら中国と韓国にはこんな文化は無い。彼らは常に自分が正しいと信じる。お互いに自分が正しいと信じる者同士が議論しても水掛け論にしかならない。だから身分による決定か当事者でない第三者による判断が必要になる。彼らは、日本人なら小学生でも野球の試合で相互に審判を勤めているということを絶対に信じないだろう。相互に審判をすれば自チームに有利な判定ばかりをして試合が無茶苦茶になるから第三者を審判にせねばならないと彼らは考える。日本人のように「利」よりも「理」を優先する思考回路を彼らは持っていない。
 韓国の朴大統領がアメリカでもヨーロッパでも日本の非難を繰り返して、日本人は勿論、各国首脳も彼女の非常識さに呆れているが、これが韓国・中国流だ。当事者には正邪を判定する能力が無いと信じているのだから第三者に判定を委ねている。これが彼らの文化なのだから軽蔑すべきだとは私は考えない。
 しかしこのことによって思わぬ墓穴を掘ってしまった。当事者には公平な判断が無理で第三者に判定を委ねるべきだと彼らは考えるのだから、竹島の領有権も国際司法裁判所に判定を求めるべきだろう。それを拒絶しているのだから、正当性が無いということを自ら確信していることに他ならない。99%非があると分かっていても1%でも理があると思えば権利を主張する国民性と併せて全く困った隣人だ。

差別

2013-11-10 10:04:36 | Weblog
 「正当な差別」はあり得ない。私は決して「差別は総て悪い」などと言いたい訳ではない。正当なものは区別と呼ばれ正当とされないものだけが差別と呼ばれるからだ。
 アメリカでは能力による区別以外は総て差別と見なされる。人種・性別・年齢などによって差別することは禁じられている。だから定年制は無い。老化しても年齢ではなく能力によって区別される。
 日本ではなぜか年齢による区別だけが認められている。定年制も年功序列制も年齢による区別と位置付けられているがこれは差別ではないだろうか。
 高齢者のほうが個人ごとの能力の差は大きい。同じ年齢であっても身体能力も思考力も大きく異なる。現在、65歳までの雇用が増えているが、大半の企業では一律の低賃金制だ。これは非常に不合理な仕組みだ。高齢者の個々の能力が生かされていない。国の指示だから雇ってやっているという姿勢が露骨に表れている。差が顕著な高齢者に対してこそ、アメリカ式の能力に応じた処遇があって然るべきであり、人事制度改革の実験場としてもふさわしい。
 当り前の話だが人は皆異なる。ある仕事に向いている人も向いていない人もいる。芸能人なら容姿によって選別されても差別ではないだろうし、バスケットボールなら身長によって適否が大きく左右される。差別という言葉はかなり恣意的なものだ。
 誰でも差別に反対する。しかしそれはその人が「差別」と感じるものを否定するという意味でしか無い。他の人にとってはそれが差別ではなく区別である場合もあろう。「差別反対」という言葉に胡散臭さを感じるのは差別という言葉には予め特定の価値判断が含まれているからだ。私は差別撤廃よりもむしろ個々の違いを尊重し合うことを重視したい。人はお互いに異なるからこそそれぞれに魅力がある。同じであればつまらない。

凧の糸

2013-11-10 09:35:02 | Weblog
 毎日、体重を計測して記録するだけというダイエット法があるそうだ。事実を知ればそのことに対して何らかの働き掛けをしたくなるからだ。私も、ダイエットではないが、実際に何度かそんな経験をした。
 私は毎日1㎞以上泳ぐことにしている。50m当たり1分20秒ぐらいのペースでゆっくり泳ぐ。これは目安に過ぎずそれより早くても遅くても構わない。ところがある日、遊泳中に壁の時計が止まってしまった。自分のペースが分からないと全然楽しくない。1㎞丁度でやめてしまった。
 こんな経験もある。夕食代をビール込みで1000円ぐらいにしようと思って記録を付け始めた。1000円プラス・マイナス幾らであるかを手帳に記録した。当初の数ヶ月は毎月プラス・マイナス・ゼロ程度だった。ところがその内、マイナスにすることが目標になってしまってマイナス3000円からマイナス10,000円(1日平均700円弱)へとエスカレートした。その目標を達成するためにビールを小さいサイズに変えたり優待券や割引券を積極的に活用するようになった。
 客観的な評価、特に数値データがあれば人はそれを改善したくなるものだ。それをノルマにする必要は無い。単に記録するだけで良い。記録さえあればそれは自動的に目標になる。人は向上したいという欲求を持っているから事実が把握できればその事実に基いて何らかの働き掛けを行う。
 きつい目標よりも緩やかな目安のほうが有効だと思う。そのほうが自由であり能動的になれるからだ。たとえ自分で自分に課した目標であってもノルマと感じればつまらなくなる。ただ単に記録するだけのいい加減さのほうが遊び感覚でチャレンジしたくなる。人は凧のようなものだ。糸が付いて適度に緩んでいれば高く舞い上がる。糸を引き過ぎれば上がれないし、緩過ぎれば落下する。

不平等

2013-11-08 10:20:35 | Weblog
 大通りと小道が交わる交差点では大通り側の青信号の時間が長い。もしこれを平等にすれば大通りは渋滞する。このように不平等にすることが合理的であることは少なくない。考え方を変えればこれが平等なのかも知れない。交差点の通過台数に基いて青信号の時間を定めるのだから1台当たりの青信号の時間は平等になる。このように視点を変えれば違った平等観が生じる。
 日本には貧富の差がある。このことを「不平等」と非難することは早計だ。なぜ差が生じるのかを考える必要がある。
 日本のジニ係数は年々悪化している。このことだけを根拠にして「格差」が拡大していると考えるのは誤りだ。ジニ係数悪化の最大の原因は高齢者の退職だからだ。
 多くの高齢者の収入は少ない。年金額は現役時代の数分の一だろう。では貧しいのか、そうとは言えまい。現役時代の蓄えがあるからだ。
 問題なのは貧しい現役世代だ。彼らは働きたくても働けないと言われている。しかし本当にそうなのだろうか。単に仕事の選り好みをしているだけではないのだろうか。
 私がそう考える根拠は少なからぬ指名手配犯の平穏過ぎる逃亡生活だ。オウム真理教関連の容疑者であれ英国人リンゼイさんを殺害した市橋容疑者であれ、彼らは不通の生活をしていた。決して多額の逃亡資金を持っていた訳ではなく普通に働いて収入を得ていた。市橋容疑者に至っては貯金までしていたそうだ。このことを考えれば日本はまだまだ豊かな国だと考えざるを得ない。指名手配犯が普通に生活できる国など殆んどあるまい。
 高齢や障害などのために働けないのならやむを得まい。そうでなければ働けないのではなく働かないだけだろう。働けない人や仕事と育児の両立を強いられるシングルマザーを助けるのは共同体の責任だが働かない人の面倒まで見る必要は無かろう。結果の不平等の原因は社会ではなく本人に拠る所が大きい。

加工肉

2013-11-08 09:50:16 | Weblog
 偽装表示問題が拡大しつつある。マスコミは当初のように定義の曖昧な「鮮魚」で騒ぐことは無くなり、産地偽装などの本当の偽装について報じるようになった。しかし最近よく使われる「加工肉」は問題があり、こんな曖昧な言葉の乱用は鮮魚と同様、慎むべきだろう。そもそも我々は「加工していない」生肉など食べない。加工の度合いが異なる合成肉から成型肉まである程度正確に報じるべきであって、単純化し過ぎれば誤報になる。
 加工肉の説明で「牛脂注入」という言葉が使われているが正しい説明とは思えない。注射器で牛脂を注入するイメージがいかにも人工的で偽装らしい印象を与えるので意図的に使っているのだろうが、不正確だ。インジェクション加工と呼ばれるこの手法は赤身肉を霜降り肉に見せ掛けるために行われているが、加工肉の中で最も安い合成肉にも最も高い成型肉にも使われていない。牛脂とは旨みのエキスであり、注入以外に表面に貼り付けるという手法もあるらしい。
 合成肉とはクズ肉を固めた物でありステーキというよりはハンバーグに近いものだ。肉片に内臓や牛脂を混ぜて固めて主にサイコロステーキとして売られている。
 成型肉とは肉片を接合させた物だ。大きな肉片に小さな肉片を接合した物が高く、小さな肉片を幾つも接合した物は安い。この加工の問題点は小麦などの成分を含む結着剤が使われていることであり、多くは牛脂注入とは無関係だ。
 このように様々な加工肉があるのに一括りにして牛脂注入と扱うのは誤りだ。飲食業界の偽装を非難するのならマスコミも自らの「迎合と単純化」という偽装体質を改めるべきだろう。
 実は私は牛脂は非常に優れた「調味料」だと思っている。低ランクの牛肉を美味しくする素晴らしいテクニックだ。表示しなかったことは問題だが、この騒動で料理の技術が否定されるのなら本末転倒ではないだろうか。「料理」の料は素材を、理は技術を意味する。料ばかりを重視して理を認めないことは食文化に否定だとさえ思う。安くて美味しいということは1つの理想だろう。

トイレの無いマンション

2013-11-07 10:32:17 | Weblog
 100年ほど前にイギリスで激論が交わされた。課題は馬糞の処理をどうするか、だった。当時ロンドンでは馬車が大流行していてこの勢いで馬車が増え続ければ馬糞の処理が追い付かなくなるという問題だった。しかしこれは杞憂だった。馬車は廃れて自動車が普及したからだ。もし大規模な馬糞処理場を作っていたら無駄な投資になっていただろう。
 このように文明の進歩が問題を解決することはしばしば起こる。現在の技術だけで未来を予想すれば誤ることもある。食糧問題でも同様だった。50年ほど前に食糧危機が騒がれた。これ以上、人口が増えれば食糧生産が追い付かなくなると言われていた。その後、世界の人口は2倍以上に増えたが食糧の絶対量は足りている。面積当たりの収穫量が2.5倍に増えたからだ。これは生産技術の向上と石油利用に負うところが大きい。
 しかし文明の進歩を信じて問題を先送りすれば大変なことも起こり得る。核燃料の「トイレの無いマンション」問題がそれだ。勿論、核燃料の処理を忘れていた訳ではない。高速増殖炉の技術が進んで燃料を再利用できると考えられていた。しかしその実験施設「もんじゅ」で失敗した。この時点で更に進んだ技術に基く高速増殖炉を作る必要が生じた。しかし一昨年の原発事故で新たな原子力施設を作ることは殆んど不可能になった。
 小泉元首相が今頃になって原発廃止を唱えることを無責任だと批判する人は少なくない。しかし状況の変化を認めるべきだろう。小泉氏が首相だった時代なら新たな高速増殖炉を作ることも可能だっただろうが今では不可能だろう。かつては「トイレを作る予定のマンション」だったが今では「トイレを作れないマンション」になってしまった。日本の技術を使って外国に高速増殖炉を作らない限り解決は望めまい。しかしそんな施設を受け入れる国があるだろうか。そんな国は多分、発展途上の独裁国しかあるまい。これでは危険の拡散になってしまう。

知覚

2013-11-06 10:24:03 | Weblog
 味覚は人によって大きく異なる。普遍的な美味などあり得ない。甘味に対する感受性だけを捕えても余りにも個人差が大きい。私は大半の菓子が嫌いだ。甘過ぎるからだ。特に和菓子は砂糖の塊りのように感じる。風味などあったものではない。砂糖の甘味が総ての味を台無しにしてしまっている。子供の頃にテレビでうどんに七味を山盛りにして食べる人を見て驚愕したことがあるが、彼は辛味に強いのではなく辛味を感じる能力が乏しいのだろう。
 視覚においては個体差が証明されている。色盲あるいは色覚異常者が存在することは個人ごとに色覚が違う可能性を示唆している。それどころか明順応や暗順応があるのだから、同じ個体であっても環境によって色覚が変動するということだ。
 最近の話題は嗅覚だ。柔軟剤の強過ぎる匂いが社会問題化しつつある。たとえ芳香であっても敏感な人には悪臭となる。インドールは極端過ぎる例だが、強い光や大きな音が不快であるように強過ぎる匂いも総て悪臭になる。
 最も特殊なのは痒みだ。痒みの正体は弱い痛みであり、弱い刺激は辛味のように快感になることが多いのだが痒みだけは痛みよりも不快であり、痒い所をボリボリと掻くのは痒みを痛みに変えるためだろう。なぜこんな反応になるのかは動物の進化という観点からいずれじっくりと考えてみたい。
 温感は触覚を超えたものだろう。皮膚で感じるだけではないからだ。X線やγ線が皮膚を透過するように光も体全体に刺激を与える。日向ぼっこの心地良さは全身で感じる快感であり特別なものだ。

2013-11-06 09:54:34 | Weblog
 日本の男のフェチシズムは多分、乳フェチ・尻フェチ・足フェチの順に多いだろう。しかし進化史を遡れば尻フェチの重要性が見逃せない。
 類人猿のオスは、発情したメスの赤く腫れた尻を見て発情する。先にメスが発情して尻を腫らし、それを見たオスが触発されて発情する。オスの性欲が視覚に依存するのは人類独自のものではなく猿から受け継いだ特性だ。
 ところが革命的とも言える大変革が生じた。二足歩行だ。二足歩行の開始により前足(手)が自由になり脳も大きくなった。そして見逃され勝ちなことだが、メスの尻が目立たなくなった。四足歩行なら前を歩くメスの尻が嫌でも目に付く。ところが二足歩行では目立たない。どちらが先なのかは分からないが、同じ頃にメスの発情期が無くなり尻が腫れることも無くなった。これは動物としての一大危機だ。オスが発情できなくなれば種が滅ぶ。
 この危機を救ったのが乳房の肥大という奇妙な進化だ。人類のメスが類人猿の中では異様なほど大きなまるで乳牛のような乳房を持つようになったのは尻に擬態したかららしい。つまり尻が果たせなくなったオスを発情させる役割を乳房が代行するようになったということだ。(「裸のサル」のデズモンド・モリスらに拠る仮説)
 こういう事情から人類のオスはメスの乳房と尻によって発情する。しかしその原点は尻だ。男が女性のお尻を触りたがるのは猿の脳がさせる業であり彼の理性ではない。
 ところで江戸時代に、豊満な女体が「出っ尻・鳩胸」と蔑ろにされたのはなぜだろうか。儒教の禁欲主義が招いた反自然的な倫理だったのだろうか?もしかしたらこのことが現代において草食系男子が増殖する原因になっているのではないだろうか。少子高齢化を憂うなら、妙な対策に金を無駄遣いするよりもグラビアアイドルの写真を中高校生に配布するほうがずっと効果的なのではないかとさえ思える。

偏った集団(続・ランク分け)

2013-11-05 09:52:25 | Weblog
 類似した特性を持った人が集まって議論をすればとんでもない結論が出るものだ。原子力ムラがそうだった。電気が必要だとういうことが絶対条件になっていれば様々な問題が些細なことにしかならない。都合の悪い事実は総て軽く評価される。スーパーコンピュータを使っても同じことだ。ブラックボックスの中は偏った価値評価だらけだ。ウェイト付けを操作すれば都合の良い結論を導き出せる。
 このことが意図的に行われるとは限らないということこそ恐ろしい。偽装が横行するレストラン業界にとんでもない常識があるように、とんでもないことを前提条件にして考えればとんでもない結論が出る。
 私には教育再生実行会議による第二の提言「ランク分けによる競争緩和」の意味が全く理解できなかった。ランク分けになれば却って競走が激化すると考えるからだ。だから「正気とは思えない」という客観性を欠いた表現を使ってしまった。反省せねばならない。
 実行会議のメンバーは正気だった。これで緩和できると本気で考えたのでありこのことは彼らの経験に基いている。なぜなら彼らは「特A」の集まりだからだ。
 ランクの変動を気にせずに済むグループが2つだけある、最上位の特Aと最下位の特Eだ。彼らはランク分けの境界線から大きく離れているのでランクの変動など想定していない。試験を受ける前からAランクまたはEランクとなることが分かっているからだ。
 特Aが警戒するのはAから特Aに上がる者だけであり、自らがBに落ちることなど微塵も考えない。Aランクに入ることが初めから分かっているから余裕を持って課外活動にも励める。
 実行会議のメンバーは多分、特Aだった人ばかりだろう。だからランク落ちの恐怖など感じずにこんな提言をしたのだと思う。彼らが打算も利権も悪意も無くこんなデタラメな提言をするということに偏見の恐ろしさを痛感せずにはいられない。たとえ賢人の集まりであろうとも偏った集団は危険だ。特に教育に関しては受験勝者の集団に決めさせてはならない。今から思えば、ゆとり教育という馬鹿げた政策も特A集団が招いた愚策だったのかも知れない。