電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

有朋自遠方來、不亦楽乎。

2004-10-01 09:58:59 | 日記・エッセイ・コラム
 昨日は、友人2人とJRの四谷駅の近くで、麹町の上智大学と丁度広い通りを挟んだ反対側の地下の居酒屋で飲んだ。友人というのは、名古屋の大学時代の同級生と、上尾にすんでいる今年定年になった編集の先輩である。半年ぶりくらいだ。上尾の先輩が定年退職になってから初めてである。近況報告、定年後の生活の仕方、野球の話、仕事の話、政治の話、インターネットの話、子どもの話等々。団塊の世代とその先輩の会話である。話は、多様であり、時間が経つのを忘れた。6時から9時半くらいまで話したことになる。家に帰り着いたのが11時だった。

 駅探の乗り換え案内によれば、名古屋から四谷までは、約2時間、上尾から四谷まで約1時間、飯能から四谷までは約1時間20分。これで名古屋が一番遠いわけだが、交通費を除けば、みなものすごく遠いというわけでもなくなった。もちろん、私と上尾の先輩の二人は、いわば東京で待って居たわけだから、「遠方の朋」は、名古屋の友人というなる。名古屋の友人は、月に四、五回は、東京へ来ているのだが、時間の都合でなかなか会えない。またあうことを約束して、別れた。

 気心の知れた友人たちと飲むのがいちばん美味しい酒の飲み方だと思うが、そんなときたいてい、論語の「有朋自遠方來、不亦楽乎。」という文章が思い浮かんでくる。昨夜は、ふと思いついたことがあって、論語を読み返してみた。論語学而第一の最初の文章は、次のようになっている。そう、前後の文脈が気になったのだ。

子日、學而時習之、不亦説乎。
有朋自遠方來、不亦楽乎。
人不知而不慍、不亦君子乎。

子曰く、学んで時に之を習う。亦悦(よろこ)ばしからずや。
朋あり遠方より来たる、亦楽しからずや。
人知らず、而して慍(いか)らず、亦君子ならずや。


 これは、論語の最初に出てくる言葉だ。この文脈からすると、「有朋自遠方來、不亦楽乎。」という文章の意味は、「己の学問が成就すると、己と同じく道に志す人たちが、近いところはいうに及ばず、遠いところからでも尋ねて来て、己を師と仰いで教えを請うようになる。こうなれば、己の学び得たところを広く人に伝えて人ともに善に帰することができるのであるから、なんと楽しいことではないか。」(講談社学術文庫・宇野哲人著『論語新釈』より)という意味になる。孔子らしい意味だ。特に、最後の「人不知而不慍、不亦君子乎。」など、必ずしも身近な周囲に受け入れられなかった思想家としての孔子の姿が彷彿としていて面白い。しかし、そんなに堅く解釈することはないと思う。斎藤孝さんは次のように訳した。

先生はいわれた。
「友だちが遠いところからたずねてきて、
学問について話し合う。
いかにも楽しいことではないか」
(斎藤孝著『子ども版 声に出して読みたい日本語 3』より)


 ブログ友人という言葉があるが、ほとんど会うことのできない、遠くの人たちが時々私のブログを訪れてくれる。それは、とても楽しいことである。昨夜の友人たちは、私のブログを知っており、毎日読んでいてくれる。そして、直接のコメントではなく、メールで感想を送ってくれる。それ以上の望みはない。ということで、この論語学而第一の最初の文章は、私の理想とするブログの心を見事にあらわしているような気がしないでもない。まあ、私は、「君子」とまではいかないので、時々、ひとりで怒ったりするのだが。


コメント (2)
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