電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

三位一体の改革と義務教育(3)

2004-10-25 21:09:56 | 政治・経済・社会
 しばらく前の毎日新聞に「国庫負担廃止論にノーベル賞学者ら異議」という記事があった。その件について、「理系白書ブログ」の元村有希子さんが「科学者と政治」という記事を書いている。その記事に出てくる「日本の将来を憂える緊急メッセージ」そのものが読みたかったので、インターネットで検索したが、見つからなかった。それを読まないと感想も中途半端になりそうだ。その代わりというのも変だが、検索中に見つけたmy.Hurusato.orgさんの「丸投げする前に、内容を検討しなければ?」という記事は鋭いと思った。

上記の2つのエントリーとも、「公教育支出の削減=公教育の後退」と捉えられておられる様子なのが、私には少し気にかかる。注目すべきなのは、これまでの公教育支出の使途と、今回の削減内容であり、結果として得られる効果ではないか。
仮に、(訳の分からない使途に科研費を流用した事例もあったくらいだから)無駄な支出があったり、十分な効果を見込めない事がはっきりした事業があるのなら、その部分については随時修正するべきだろう。

 上記2つのエントリーというのは、一つは、先ほどの理系白書ブログの記事であり、もう一つはあざらしサラダさんの「教育を切り捨ててどうする」という記事のことである。いつの間にか、文部科学省を応援する団体ができていることも気になる。いろいろな組織が、文部科学省を応援しているので、厚生労働省のようにまたもや監修料の問題で批判されている省庁と違って、今のところ元気に見える。あの日教組でさえ応援団体になっているのだ。しかも、22日は中教審会長も反対を表明し、実行されたら止めるとまで言い出した。こうした事態を見ていると、次のような麻生総務相の考えもおそらく本当だろうなと思えてくる。

 こうした中で、麻生太郎総務相は22日「(反対論は)意見として分からないわけではないが、義務教育をやめるわけではない」と述べ、補助金をカットしても税源が移譲され、義務教育制度自体には影響がないと強調した。地方案擁護の同省は一連の反対運動の黒幕は文部科学省とみており、「ノーベル賞受賞者」らの権威をバックに「補助金カット=教育費削減」の図式が浸透し、世論が削減慎重論に傾くことを警戒している。


 「国庫負担金を地方に自由にさせたら地方の教育に格差が生まれるだろう」という発想はとても安易に思われる。地方自治体は危ないところがあり、そこでは教育に使われる資金を別の科目に使ってしまうに違いないという考えは(文科省はシミュレーションまでしたという)、本当に正しいだろうか。そういう地方の問題は、教育だけの問題なのだろうか。今のところ削減の対象になっている国庫負担金は中学校の教師の給与分だけだ。さらに、次のような問題もあるという。

浅野氏らが補助金削減をことさら重視するのは(1)使途が細部にわたり限定されている(2)使い切らないと減額される……という中央優位の性格にある。しかも補助金を「配る側」と「受け取る側」とも多くの要員がかかり、西日本のある県が今回の3・2兆円削減案の中の自県分にかかわる申請業務などに費やした人件費を試算したところ、年間3.6億円にも上ったという。


 いま、いわば建前が崩れようとしているのだ。義務教育を国で負担すると言うことであれば、それは国の負担金として残すべきだと思う。しかし、地方自治体が雇う教員の給与の負担金の補助によって、地方の教育人事をコントロールするという発想は止めるべきだ。自分たちがやらなければ、地方はそのお金を違うことに使ってしまい、国民の教育に格差が生まれるというのは、地方を見下した言葉だと思う。それとも、国はお金がいくらでもあるから大丈夫だとでも言いたいのだろうか。政府は28日までに対案を出すように言っているが、文科省には対案はないという。my.Hurusato.orgさんの次の言葉は、もっともだと思う。

こうした全体像を踏まえた検討がないままに、公教育支出の削減を論じても、財政上の制約が厳しい現状では、正確な結論は導けないし、世論にもアピールしないと思う。多くの人たちが、国の財政が火の車状態で、早く手を打たないと自分の将来の負担が増えることを、自分の問題として意識し始めているのだから。



コメント (1)
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