電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

ブログの「私」について

2004-10-21 22:01:52 | 文芸・TV・映画
 大塚英志さんの『物語消滅論』(角川書店)の帯が面白い。読み終わったときの自分への問いかけが、まさしく、その帯の言葉と同一なのだ。 大塚英志さんは、物語化した社会に対抗していくためには、文芸批評が有効だという。だから、本のタイトルは『物語消滅論』だが、「物語を消滅させるにはどうしたらよいか」ということが問題になっている。

 「テロとの戦い」からファンタジーの流行までイデオロギーに代わって「物語」が社会を動かし始めた―。「物語」の動員力にいかに抗していくのか? 「物語」が「私」と「国家」を動員し始めている。テロとの戦い、ファンタジーの世界的ブーム、ネットでの中傷による殺人事件…。いまや社会において人々を動かしているのは「物語」である。80年代後半にイデオロギーによる社会設計が有効性を失い、複雑化する世界を見通すことが出来なくなった時、人々は説明の原理を「物語」の因果律に求めた。それは善と悪、敵対者、援助者など単純化された要素により成り立つ因果律である。それは分かり易さ故に人々を動員し政治をも動かし始めた。イデオロギーが「物語」に取って代わられた時代、世界はどこへ向かうのか?そのリスクはいかなるものなのか? (帯の文章)

 「テロとの戦い」というのは、日本を巻き込んで行われてブッシュ大統領のイラク戦争であり、「ファンタージーの世界的ブーム」とは『ハリー・ポッター』と『ロード・オブ・ザ・リング』のブームであり、「ネットでの中傷による殺人事件」とは佐世保同級生少女殺人事件のことである。確かに、「テロとの戦い」はファンタジーの定石である「光と闇の戦い」と同じように、「正義と悪の戦い」として演出されている。ブッシュ大統領の口から、なぜイスラム圏の人たちがテロに頼らざるを得なかったかの分析は少しもない。まるで、キリスト教の十字軍の戦いのように見えた。

 佐世保事件の殺した少女の愛読書が『バトル・ロワイアル』であり、殺された少女の愛読書が『キノの物語』であったということに痛ましさを発見した大塚さんは、殺した少女が少年鑑別所に入って読みふけった小説が『赤毛のアン』だったことに無念の気持ちを抱く。「『赤毛のアン』ほど戦後の日本女性の自我形成に寄与した小説はない」と信じている大塚さんにとって、読む順序が逆だったらおそらく殺人はなかったということになる。

 私もブログを立ち上げ、ネット上の「私」を持っている。この「私」は、確かにネット上に仮構されたキャラクターのような存在なのだが、その背後にはやはり近代的な自我があり、そこには「自尊心」や「プライド」が隠されている。その自我は、ネット上ではむしろ肥大化し、むき出しになっているのではないかという。たとえハンドルネームだとしても、ネットに登場することは、そういう「私」を承認して欲しいという欲求があるはずだという。そういう「私」がネット上に中途半場に無防備に持ち込まれていることが問題だと言う。

 だから、近代的な作法や教養や啓蒙を持たないで、仮想化した空間のなかでキャラクター同士が出会うと知らず知らずのうちに後ろにいる無防備な近代的自我を攻撃してしまうことになってしまった。あの事件に限らず、ネット上で大喧嘩が起こりやすいというのは、そういうことなのではないか。(『物語消滅論』p156・157)

 マルクス主義が消滅した後に、社会についての構造的な説明をする理論が科学から物語に取って変わられているというのは、鋭い警告だ。古典的だが、そこで文芸批評の有効性を主張するのはよくわかる。物語について最も理解が深いのは、他の政治的イデオロギーではなく、文芸批評だというのは正しいと思う。私も、自分のブログの「私」についてよくよく考えてみたいと思った。

コメント
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