青瓦台という空間の歴史が単なる歴代大統領の統治史ではなく、日帝侵奪史の本流から始まり、分断時代へとつながる朝鮮半島の苦難に満ちた現代史そのものだったことを気づかせてくれる。

2022-05-13 11:43:34 | 韓国文化

起源は日帝の総督官邸…

「83年にわたり最高権力の空間」青瓦台の秘史=韓国

登録:2022-05-13 03:13 修正:2022-05-13 08:04
 
[ノ・ヒョンソクの時事文化財] 
景福宮の後苑、日帝の総督官邸が起源 
紆余曲折の末、解放の6年前に完成 
 
戦争3日目にしてやってきた金日成 
3回滞在も、什器には触れず 
フランチェスカ女史の回顧談に 
「景武台は自分のものになると確信」解釈
 
 
1910年から1939年まで第1~7代朝鮮総督の居所だったソウル南山麓の倭城台官邸。 解放後、国立博物館として使われ、1950~60年代に撤去。正確な撤去時期は不明=ソウル歴史博物館提供//ハンギョレ新聞社

 「本日をもって青瓦台(大統領府)大統領時代が終わります」

 9日、大統領府からの最後の退勤をした文在寅(ムン・ジェイン)前大統領が見送る人々の前で叫んだ言葉は、重みのある宣言のように聞こえた。創氏改名で悪名高い第7代朝鮮総督、南次郎(1874~1955)が、朝鮮王朝の正宮である景福宮(キョンボックン)の後苑に景武台(キョンムデ)新官邸を建てて1939年9月20日に入居したことから始まった最高権力の空間が、83年の歴史(正確には82年8カ月)にピリオドを打ったという意味を持つからだ。

 1939年9月は日中戦争において中国の反撃が本格化していたほか、ドイツがポーランドに侵攻したことで第2次世界大戦が勃発したばかりの時期だった。不安な国際情勢が最も大きな問題となっていたため、総督の新官邸建設のニュースを当時のメディアは大きくは扱わなかった。1939年9月21日付の「東亜日報」2面には、景武台総督官邸の落成式の記事と写真が掲載されている。日本の神社から派遣された神官が、白い服を着て官邸入口に護符をずらりとはりつけて儀式を行っており、その後ろでは総督府の官僚たちが頭を下げている。写真に付け加えられた記事は、2年をかけ48万ウォンの公費で竣工した新総督官邸の華やかな落成式が、9月20日午前11時から南総督と総督府ナンバー2の大野政務総監、各局の課長の参列のもと行われ、2日後の22日に南総督夫妻と後藤秘書官の一家が新官邸と官舎に移る予定だと伝えている。

 
 
1993年10月、撤去中の大統領府旧本館。旧本館は20世紀初めの日本の伝統的な屋根様式と西欧のモダンな立方体建築が融合した建築で、日帝の公共機関の官邸の権威的な様式を踏襲していた=国家記録院提供//ハンギョレ新聞社

 新官邸を世間の話題の的にしたのは「朝鮮日報」だった。南総督が入居して10日たった同年10月3日付の朝鮮日報が、1面に新官邸の単独探訪記を載せたのだ。朝鮮人を兵士や労働者として徴用する強制動員政策が露骨になっていた時期だった。南総督の入居を祝うとして書かれたこの記事は「景武台の松林を道場として謹厳に健康な日課を送る」という大見出しと「老総督の新官邸生活訪問記」という小見出しが付いている 南総督の景武台官邸への入居を祝うために、朝鮮日報の当時のパン・ウンモ社長とイ・フング主筆が果物を手土産に訪ね、あいさつしながら交わした会話、景武台内部の風景、そこから眺めた京城の風景を紹介している。記事は、「紅顔白髪」の南総督がいつもと同じように賑やかに一行を迎え、珍しい草木と石灯籠のある庭園、鎮海(チンヘ)から取り寄せた金魚やコイの泳ぐ池、官邸の裏にある白岳山(北岳山の異称)の麓の散策路まで見物させてくれたと説明しつつ、このように記している。

 「総督は、再び足をのばして構内見物のために山麓に案内する。庭園の前に回って山麓の陸橋に上がると、かつて景武台の後ろにあった朝鮮の建物をここに移して……六角亭に登ると、樹々の海のような松林の向こうに南山以北の城内一帯が広がり、眺めがとても良かった」

 
 
1931年、日本の陸軍大臣在職時代の南次郎。5年後、朝鮮総督に就任する=パブリックドメイン//ハンギョレ新聞社

 多くの人々が看過しているが、権力の空間である大統領府の起源は、実は朝鮮総督府庁舎の建設が決定的な背景となっている。1926年、景福宮を目隠しするように総督府庁舎が建設された後にも、依然として会賢洞(フェヒョンドン)近くの南村(ナムチョン)の倭城台(ウェソンデ)官邸に住んでいた総督が、通勤するには距離が遠く警護上の不便さもあって、1930年代半ばに移転方針が決定されたが、工事は遅れた。紆余曲折の末に南総督が赴任した1937年に着工されたものの、日中戦争にともなう物資不足と戦時経済統制により1938年に一度工事が中断され、1939年9月20日に日本の神官が参席して伝統的な神道の儀式を挙行し、官邸が落成した。500年の朝鮮王朝の威厳と気品が漂う、国の王宮である景福宮の象徴的空間への官邸の建設は、銃刀を前面に押し立てた日帝の威力をもってしても、事実上は一気にはなしえなかったのだ。総督府庁舎の隣の西村(ソチョン)と北村(プクチョン)に日本人の社宅街や京城医専病院などの官公庁が確実に建てられた後である1939年に、すなわち解放のわずか6年前に景武台官邸が完成したというのは、じっくり考えるべきことだ。空間的に朝鮮を完全に統制していることを示す象徴的な作業が、解放をわずか6年後に控えた時期にようやく最終的に完成したことを示しているのだ。青瓦台官邸は、このような日帝の象徴的な空間の侵奪に、いかに長い時間がかかったかを証言する歴史的証拠としても意味がある。

 南次郎以降、1942~45年に総督として在任した小磯國昭と阿部信行は、まさにこの官邸で、人材および物資の供出令、徴兵令、挺身隊動員など、最後の悪あがきの強制動員と搾取政策を議論し、実行に移した。官邸と龍山(ヨンサン)の朝鮮軍(朝鮮駐留日本軍)司令部は、朝鮮半島の収奪と侵奪の二大中枢拠点だった。朝鮮軍司令官出身の南は、部下たちが守る龍山の朝鮮軍司令部も統治の手段として活用した。総督官邸と司令部は一体だった。

 解放後、阿部総督が什器を燃やした官邸を、米軍政司令官ハッジはそのまま使用する。李承晩(イ・スンマン)が続いて景武台を押さえ、朝鮮戦争開戦からわずか3日でソウルを占領した金日成(キム・イルソン)は3回ソウルを訪れ、景武台に滞在した。しかし、李承晩の妻フランチェスカが生前、知人たちに打ち明けた回顧によると、金日成は内部の家具や什器にほとんど手をつけなかったと伝えられている。陸軍参謀総長を務めたペク・ソニョプ(1920~2020)はこれについて、2016年に出版した回顧録で、「権力に敏感だった金日成が『景武台はまさに自分のもの』という考えから、大切に保存したと考えた方が合理的だ」と解釈している。

 1968年、北朝鮮の政権は特殊部隊を送って大統領府襲撃作戦を展開したが、失敗に終わる。深刻化した南北政権の分断と対立は、官邸をより民意とかけ離れた権力の鋼鉄の城にした。このような秘史は、青瓦台という空間の歴史が単なる歴代大統領の統治史ではなく、日帝侵奪史の本流から始まり、分断時代へとつながる朝鮮半島の苦難に満ちた現代史そのものだったことを気づかせてくれる。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

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