お盆が近くなったので、霊について考えてみたい。
人が死んだ場合、物としての身体は消滅する。心や魂は身体のひとつの現象であるから、それも消える。
しかし、生きている側からの関係性は消滅しない。この関係性が、問題となるのである。
例えば、愛する人が死んでしまった場合、もう逢えないという欠落感や寂しさ・悲しさという感情が生まれる。その感情がその亡くなった人との新たな関係性なのである。死んだからといって、関係は消えない。むしろ、強くなる場合もある。
この死者との関係性をうまく構築するツールが、霊を弔う儀式である。
愛する人が死んで悲しい。しかし、きちんと弔ったからあの世で幸せに暮らしていくに違いない。だからこれでよかったのだ、と。
また、関係性について極端な行動をとる人がいる。
例えば、憎たらしくてその人との関係を断ち切りたいから殺すというものである。しかし、この方法は関係を断ち切るものとしては、大失敗だろう。自分が殺したということが一生ついてまわるからである。それ故、かえって関係性を強化するハメになってしまう。
死者とどう関わるかは国論を分ける大問題にもなる。靖国参拝問題を考えればわかるだろう。参拝しろという人も、それに反対する人も、霊が存在していることを前提にしている。
しかし、結局、死者をどう弔うかは、私たちの心の持ち方や生き方を決定する。愛する人を守るために命を賭けても構わないと思う人は、戦争で亡くなった人に敬意を払うだろう。戦争でなんか命を賭けるのは馬鹿馬鹿しいと思う人は、靖国で祀られている人を敬うことはないだろう。
死者との関係の仕方は私たちを映し出す鏡なのである。