前のブログで、あの世や霊魂について、自分がどのように考えているのかを明らかにした。それは、シャーマニズムについて述べるためである。
というのも、科学的な考察を抜きにあの世や幽霊の話ばかりしていると、いろんな意味で誤解されてしまうからである。
ただ、幽霊がいるかいないかの存在論とは別に、異界や霊魂という観念的なものが私たちにどのような影響を与えるのかを考えることは有意義である。
例えば、靖国参拝が特亜や日本社会に与える影響、東北の震災で亡くなった人たちに対する鎮魂、震災だけではなく愛する人を失ってしまった遺族の感情などである。
つまり、本当に霊が存在するかどうかとは別に、祖霊に対し畏敬を示したり、残された者の悲しみを鎮めるために、私たちは何らかの儀式を必要としているのである。その儀式は、一応、異界と交信できる者たちによって行われる。
このように、重要なのは霊魂の存在論ではなく、残された私たちの気持ちを納得させることなのである。シャーマニズムの社会的機能を考えることは、オカルトでも何でもない。亡くなった人たちへの愛情と別れの一場面であり、人間臭いものなのである。
肉体が滅び、魂すら存在しなくとも、私たちには亡くなった人への記憶と情愛がある。それと折り合いをつけるために、新たな物語が必要なのである。
ところで、前のブログで、私はシャーマンをあの世とこの世を行き来する人と言った。もう少し学術的に検討してみよう。
シャーマンとは、自らの意志で変性意識状態(トランス状態)を作り出し、精霊をコントロールし、精霊に苦しめられている人たちを助けるために、その力を用いる人をいう。
精霊をコントロールする方法には大きく二つのタイプがあるといわれている。憑依と脱魂である。
憑依は、あの世もしくは私たちのまわりに漂っている霊魂を、自分の体に乗り移させ、私たちと接点を結ぶ方法である。典型的には恐山のイタコだろう。
これに対し、脱魂は、自分の体から魂を一時的に離脱させ、天上界や地上界に行き、そこで見たものを語るという方法である。
日本のシャーマニズムは、憑依型が多いといわれている。
ただ、わたしは現代において、このシャーマンの定義では狭すぎると思っている。異界へ導き、私たちの記憶を書き換える力を有しているものは、広くシャーマンと言ってもいいのではないだろうか。
例えば、小説家、精神分析医、優れたアーティストなどである。
ポイントは、変性意識状態を作り出し、ある神秘体験をさせることによって、内部記憶を書き換え、心を安定させる能力を有した者たちである。
これについては、後でくわしく書きたいと思う。