フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

何度も、何度でも

2011年11月02日 19時32分29秒 | 日々の出来事・雑記

 毎日同じ事の繰り返しで人生つまらないという人がいる。たまーにそういうことを思うが、ほとんど同じような生活を何年も続けているにも関わらず、あまりそういうことを考えない。
 昨日、そういう話をする機会があった。地下鉄南北線は電車のホームに立派な柵があって人身事故が起こりにくい構造になっている。JRの中央線とかは人身事故が多いから、これと同じような柵を作ればいいのになぁという話をした。冗談かもしれないが、実際にたまに線路に飛び込みたくなるという人がいた。その理由は、特に具体的な問題があるわけではないが、漠然としたもので、毎日同じことの繰り返しで歳ばっかりとって人生が嫌になってしまい、終わりにしたくなるそうだ。
 
 それについて考えてみる。どうしてそういう風に思ってしまうのか、どうして私はそういう風に思わないのか。
 
 「毎日同じことの繰り返し」という感覚が、ちょっと違うなぁと思った。
 もちろん私だってドラマのような変化のある生活をしているわけではない。だいたい朝起きて顔を洗って歯を磨きコーヒーを飲んで、8時になるとフジのとくダネにチャンネルを回してニュースを見る。そのようにいうと毎日同じことの繰り返し
じゃないかと思われるかもしれないが、決して毎日同じではない。ニュースの内容だって全然違う。とくダネがつまらなければ、違う局も見る。体調だって少しずつ違う。微細な差かもしれないが毎日毎日違う。少なくとも私はそうだ。同じ日などない。
 毎日が同じことの繰り返しと感じる人は、その微細な違いをあまり意識せず同じことのように感じているのだと思う。
 それはなぜなのだろうか?
 
 多分、嫌だったり苦しいことを無理にやっているのだろうと推測する。だから、感覚を鈍化させてその苦しいことをやり過ごすのだと思う。確かに、感覚を麻痺させ、いろんな感情が起こらないようにすることでストレスが軽減される。しかし、それでは、毎日の微妙な変化など全く分からなくなってしまうだろう。そして、結局、人生がつまらなくなってしまう。
 
 もうひとつは、物事についておおよそのことは予測可能だと思っているのだではないか。つまり、今日起こることについて、だいたいのことはわかっていると。
 私は、将来なんてものは全く何が起こるのか分からず、すべての人に平等に開かれていると思っている。もちろんいいことも悪いこともある。未来はさっぱり分からないと思う。それだけで、ワクワクしてくる。と同時に、多少の怖さも感じていて、ナメずに慎重に行動するようにしている。
 とにかく自分に起こったいいこともやばいことも、真剣にかつ夢中で処理する。少なくともそうするように努力する。そうするといろんなことが見えてくるし楽しくなってくる。苦しみを逆転させそれを楽しくするにはそれを乗り越えるしかない。マゾなのかもしれないが、山登りだってきつくて嫌だが、じっとそれを耐えて登っていると快感になってくる。苦の中に楽しさかあり、楽の中に苦がある。
 人間関係だって毎日微妙に違う。今日、きれいな女の子に冷たくされても、明日はにっこり微笑んでくれるかもしれない。毎日の微妙な変化に敏感になるには、感覚を鋭敏にしておかなくてはならない。微妙な変化に対して敏感に反応できる能力は、災難から自身を守ってくれる。ただ、多少疲れる。だから、健康に気をつけて体力をつけておかなくてはならない。そうしないともたない。

 平井堅の歌で「何度も何度でも、僕は君に恋をする」という歌詞がある。甘いラブソングだが、もし、そういう風に過去をリセットして生きていけたらなかなか楽しそうだなぁと思う。
 実際には記憶があるのだから過去をリセットなんてできない。けれど、自分は決して毎日同じではない。相手も毎日違う。微妙に違う自分と、微妙に違う相手が会話するのだから、毎日違う関係性が生まれるはずである。
 
 未来はすべての人に平等に開かれている。そして、何が起こるか分からない。けっして同じことなんかない。一瞬一瞬を真剣に向きあえば、苦しいかもしれないがワクワクした人生が送れるはずである。このワクワク感が人を前にすすめるのだと思っている。

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