夏休みの帰省が終わって、小百合は寮に帰ってきた。全寮制の女子校に小百合は在籍する。与えられた一人部屋で小百合はいつも一人でいた。
ドアを開けて廊下へ出ると大抵人が歩いていて、小百合はいつも通りすがりに挨拶した。うるみもその一人だ。ただ、うるみだけが態度が違う。小百合の挨拶に、小百合が不思議に思うほど嬉しそうな笑顔でうるみは挨拶を返してくるのだ。
小百合はその笑顔が苦手だった。自分に対してだけ、うるみが妙に嬉しそうに笑う。小百合は自然、うるみによそよそしい態度をとるようになった。
そんなある晩のことだった。小百合がいつものように寮の自分の部屋にいると、ドアをノックする音がした。ドアを開けるとうるみが立っていた。同じ寮の誰かが訪ねてくるのは初めてだ。
「どうしたの?」
小百合はそう訊ねた。
「わたし、なにか言いましたか?」
うるみが泣きそうな顔でそう言った。
「え? なにも言われてないけど…」
小百合が戸惑いながらそう言うとうるみが泣き出した。
「ね。部屋に入ろう」
小百合はとっさに泣いているうるみの背に手をやって、うるみを部屋へ招いた。うるみのことを無視しすぎたのかと、小百合はすまない気持ちで自分のベッドに座らせた。
「わたしのこと、嫌いなんですか?」
うるみが震えて泣きながらそう言った。
「え? そ、そんなこと、ないよ」
「いいえ。小百合さん、わたしのことを無視しています」
うるみが涙顔で小百合から目をそらせてうつむいた。
「そんな… 無視なんてしてないよ」
うるみは学年一成績が悪い。あと、どことなく不潔で貧相だ。学年トップの成績で生まれ育ちのいい、しかも美人の小百合と違う。
「ね。無視なんてしてないよ。ね。これまで通り、仲よくしようね」
小百合はうるみの両手を取って、
「仲直りね」
と言った。うるみはこくんとうなずいた。
翌日、小百合は寮長に呼ばれた。
「昨日の夜、人を部屋へ入れましたね。違反ですよ」
「すみません。そうですね、違反ですね。泣いていたので、つい」
「違反とわかっていて部屋へ入れたんですか。どういうことですか」
「わたしの個性による判断です。すみませんでした」
寮長がため息をついている。小百合が続けて言った。
「うるみさん、みんなに嫌われているって、勘違いしているみたいなんです。部屋の前で泣いていて… それでとっさに部屋へ入ってもらったんです。これからも仲よくしようねって」
寮長はふむふむとうなずいていた。
その翌日だった。寮長から小百合に再び話があった。
「小百合さん、今夜からうるみさんと同室になります」
「え?」
「よろしくお願いしますね」
その夜、二人部屋に小百合とうるみの荷物が運ばれた。小百合が二人部屋に入ると、うるみがもじもじと小百合を待っててもいたかのように立っていた。
「よろしくね」
「うん。よろしくね」
その夜、小百合はよく眠れなかった。うるみの寝息が聞こえてくる。それを聞くうちに小百合はいつの間にか眠っていた。
小百合とうるみの同室は平穏に過ぎていった。そんなある夜のことだ。小百合が引き出しにしまっていたお菓子の一つがなくなっている。一つ150円ちょっとするベルギーワッフルだ。小百合はお菓子の紛失の犯人としてとりあえず一人、思い浮かべた。もちろん同室のうるみだ。でも、お菓子の紛失は自分の記憶違いかもしれない、小百合はうるみを疑うのをやめた。
数日後の夜、また、今度は引き出しにしまってあったはずのバームクーヘンがない。ベルギーワッフルと同じくらいの値段のものだ。小百合は紛失というより盗難だと確信するようになった。犯人は当然同室のうるみだ。敏感な小百合は正直怖かった。人のものを平気で盗む同室のうるみ…。小百合は寮長を恨んだ。それ以上にうるみの仕業に激しく憤った。小百合はお菓子の盗難を誰にも言わなかった。
その翌週、掲示板に人が集まっていた。週末の土曜に寮の全室、全員にテレビが取り付けられるということだった。イヤホンで観るというルールの元でだ。イヤホンだったら iPod とウォークマンの分、2つある。イヤホンを買って用意する必要はなさそうだ。
土曜の午後、テレビの取り付けがあった。小百合は夜になって、テレビを観ようとイヤホンを取り出した。
「テレビ、観るの?」
うるみの声がした。
「うん。うるみさんは観ないの?」
「イヤホンがなくて、観れないの」
小百合はイヤホンなら自分は2つあることをとっさに言えなかった。
「月曜になったら、売店にイヤホン売ってるよね。あ、コンビニにも売ってるかな」
と言っても、もう夜で、コンビニまで少しある。小百合は2つあるイヤホンのうち1つをうるみに貸すかどうか、迷った。寮では物の貸し借りは禁止なのだ。
「明日、朝になったら、コンビニにイヤホンを買いに行くよ」
うるみがそう言った。
「え? でも、うるみさん、今夜テレビ観たいでしょ? 今日テレビ付いたばかりじゃない」
そう言いながら、小百合はイヤホンを貸すかどうか、悩んだ。うるみは小百合のお菓子を間違いなく盗んだことがある。そのことで小百合は憤ったはずだ。小百合はうるみが物を盗むことを反芻した。
「うるみさん、イヤホン、2つあるから、1つ使わない? 物の貸し借りは禁止だけど、明日の朝、コンビニにイヤホンを買いに行くんでしょ? 一晩だけ貸すよ。ルール違反になるけど、明日の朝、必ず返してくれるよね?」
「うん。絶対返すよ」
「うん。約束ね。必ず返すって、ゆびきり」
小百合はうるみに右手の小指を差し出した。うるみが小百合の小指に自分の小指を絡ませた。
「ゆびきりげんまん 噓ついたらはりせんぼんの~ます ゆびきった」
そう言って、小百合はうるみと手を離してイヤホンを渡した。
翌朝、小百合が起きると、もううるみが起きている気配がしていた。
「おはよう」
小百合のほうからうるみに挨拶をした。
「おはよう。イヤホン、ありがとう」
うるみがイヤホンを小百合に差し出した。
「ちゃんと返してくれてありがとう」
小百合はうるみに微笑んだ。
「これからコンビニにイヤホンを買いに行ってくる」
「そう。行ってらっしゃい」
もう着替え終わったうるみが、ドアを開けて出て行った。部屋に残された小百合はてのひらのイヤホンを見つめた。
「ちゃんと返してくれたじゃない…」
小百合は違反だろうが何だろうが、イヤホンを貸してよかったと思った。