風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第2話

2011年12月01日 06時35分00秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 君の涙はふたりのもののはず


 遥の異変に気づいたのは、仲秋の名月の日だった。
 ふたりで夕飯の買い物へ出かけ、和菓子屋の店先にパック詰めの月見団子が並んでいるのを見かけた。
「そういえば、今日はお月見だったね。――買おうか」
 僕が一つ手に取ると、
「わたしが自分で作るわ。実はね、もう準備してあるの」
 と、遥ははしゃぐ。
「それで小豆を水につけてたのか」
 下宿の流し台の脇に水を張ったボールが置いてあって、なかには小豆が入っていた。
「あれさ、けっこう量があったよね。赤飯も炊くの?」
 仲秋の名月だから赤飯にするのかな、とそんな疑問が頭に浮かんだ。
「お団子だけよ。たくさん作りたいの」
「そんなに食べられないよ」
「だって、お月さまにお供えするんでしょ。たくさんあったほうが、お月さまもきっと悦《よろこ》んでくれるわよ。残ったら、明日の晩、十六夜《いざよい》のお月さまにもう一度お供えして、それから食べればいいんだから」
「遥がそういうのなら――」
「そうしましょ」
 遥はちいさくスキップした。
 僕たちは和菓子屋を通り過ぎ、スーパーで夕飯の材料と団子の粉を買った。遥は月見団子を作ることがそんなに嬉しいのか、帰り道の間中、僕の腕にしがみついたままだった。遥は朝から妙に機嫌がよかった。
 ふたりの「家」へ帰り、遥はさっそく小豆を煮始めた。僕も手伝おうとしたのだけど、わたしの領分だからと言って僕には触らせない。遥はままごとをして遊ぶ女の子のように目をきらきら輝かせ、鼻歌を唄いながら団子を丸める。できあがった餡を板状にしてから、へらで雲の形に整え、団子に巻きつけた。叢雲《むらくも》月見団子ができあがった。
 窓辺に折り畳み式のテーブルを置いて大皿に並べた月見団子を供え、その脇に花屋で買った薄を飾った。
 夜空に低く満月が浮かんでいる。
 薄い雲が夜をかすめ、月をぼんやりさせる。
「お月さま、眠そうね。うたたねしているみたい」
 遥はふっと微笑んだ。
 僕が借りたワンルームマンションで同棲を始めてから、半年ほど経っていた。遥との暮らしは夢の中にいるようで、生まれて初めて、さびしくないと心から感じることができた。冷え切った家庭に育ち、こんなところにいては自分が駄目になってしまうといつも焦っていた僕は、ようやく自分の落ち着く先を見つけることができたのだ。遥だけが、僕の居場所だった。
 ――このままでいられますように。
 胸のうちでそう願いながら、お月さまに手を合わせた。ずっと、この暮らしが変わらないでほしい。ふと薄目を開けると、僕の隣で跪いた遥は月に向かって十字を切っている。
「お月さまにお祈りしてるの?」僕は訊いた。
「そうよ」
「いくらなんでも、それはおかしいんじゃない?」
「そうね」
 遥はぷっと吹き出す。
「でも、いいじゃない。わたしはなんにだって祈りたい気分なのよ。すべてに感謝したい気持ちでいっぱいなのよ」
 遥はちょっぴり真顔になった。僕と一緒に暮らして、彼女も倖せな気分でいてくれているんだ。そう思うと、心あたたかくなれた。
「天にまします神さまに見つからないように、こっそりお祈りしなよ」
「やっぱり怒られるかなあ」
「そうなったら、僕がかばってあげる。なんなら、神さまと戦ってもいいよ」
「ゆうちゃんと神さまだったら、ゆうちゃんに勝ち目はないわよ。ゆうちゃんこそ、どうかしてるわよ」
 僕たちは笑い転げた。
 お月さまを拝んでから、夕飯を食べた。
 遥は、僕のリクエストに応えてチーズハンバーグを作ってくれた。チーズがいい感じにとろけておいしい。この頃、遥の料理の腕はめきめき上達していた。遥自身も炊事が楽しみになってきたようだ。遥がテストで忙しい時やバイトで遅くなる時は僕も料理したけど、それ以外は僕には作らせてくれない。遥は食事の支度だけではなく、自分が家事を取り仕切ることに生きがいに似たものを見い出したようだった。僕が家事をするとどうしても雑になるから、自分の手できっちり仕上げたいのだろうか。それとも、母性がそうさせるのだろうか。ともあれ、ここがふたりの家だと思ってくれていることだけは確かだった。
 デザートにおさがりの月見団子を食べた。
「もうちょっとお砂糖を入れたほうがよかったかしら」
 遥は、舌先であんこを転がして吟味する。
「そうだね。甘味が足りないかな。でも、初めて作ったにしてはいいできだし、まずまずの味だと思うよ」
「お砂糖を入れる時に、ちょっと迷ってしまったの。あんまり甘すぎて太ったらどうしよって。だから、すくなめに入れちゃったのよ」
「遥は華奢だから、そんなに気にしなくても平気だよ。むしろ、すこしくらい太ったほうがいいんじゃない」
「でも、やっぱり太りたくないわ。太りすぎちゃって、遥なんかいりませんって、ゆうちゃんに言われたらどうしようって考えてしまうもの」
「今より十キロ太っても、そんなことは言わないよ」
「ほんと?」
「そうなったら、いっしょにジョギングしてダイエットしようよ」
「うれしいわ。約束よ。――わたしは、まだまだ修行が足りないのね。太りたくないって自分の欲を出したから、餡を上手に仕上げられなかった。食べ物を作る時は、どうやったらおいしくなるのかって、それだけを考えなくちゃいけないのよね。つまらない我を張ったらいけないのよ」
「次はうまくいくよ」
「今度、おはぎを作るわね」
 お茶を飲んで一服した。
 満月は空高くのぼっている。
 東京で見る月は地元の月ほど美しくないけれど、それでも僕をのんびりとした気分にさせてくれた。遥は僕の肩にもたれかかり、
「ねえ、ゆうちゃん、さきにシャワーを浴びてよ」
 と言って、愛おしくてたまらなさそうに僕の首を抱いた。
 今日の遥は、いつになく積極的だった。遥が年上の女になったようだ。
 遥が何度も僕の名前を呼ぶ。
 その声は、たいせつなものが欲しいと求めている。遠い潮騒を聞くように、僕はずっと昔からそれを知っていた気がする。その声に導かれて、今まで生きてきたようにさえ感じる。遥は、僕の心からたいせつなものをたぐりよせようとしていた。もちろん、僕は遥の望むものなら、すべて贈りたかった。すべてを与えたかった。
 遥の心が僕の心に触れ、心の表面がとろける。水銀のようになった心の粒がたがいに交わる。ふたつの心が溶けてひとつになる。なにも考えることはない。なにも想うことはない。ただ、ひとつになればいい。それだけでいい。
 ふと、心の奥で星が弾けた。
 まぶしい光が心をおおい、百メートル走を全力で駆け抜けたようなさわやかさと喜びが心を駆け抜けた。ひとつになった心は、またもとのふたつへ戻った。たがいの心の粒子をすこしずつ持ち帰って。
 僕は満ち足りて、とても幸せだった。愛し合っている間中、白い遥の裸体を照らしていた満月のように、どこも欠けたところはない。足りないものはなにもない。だけど、遥はぐすんと鼻を鳴らしたかと思うと、哀しそうに体を打ち震わせ、かすかにむせぶ。
「どうしたの?」
 遥も幸せな気分になってくれたものだとばかり思っていた僕は、とまどった。遥の泣く理由が思い当たらない。とはいえ、考えてみれば今日の遥はどこか変だった。朝から妙にご機嫌だったのもそうだし、自分から僕の体を求めるだなんて、今まで一度もなかった。遥が主導権を握って交わったのも初めてだった。
 遥はすすり泣く。まださめやらない薄桃色の頰に滴が伝う。
「僕が遥を悲しませてしまった?」
 せつなかった。細い鎖骨をそっとなで、火照った体を抱きしめた。遥は、僕の胸に顔をうずめる。
「そんなことないわ。ごめんね。わたしばっかり気持ちよくなって」
 遥は、言いたいことのはしっこを言っている。
「僕も気持ちよかったよ。ねえ、わけを教えてよ。なにが悲しいの?」
「ごめんなさい」
「謝ってほしいって言ってるわけじゃないんだ。心配なんだよ」
 ティッシュを取って遥の涙を拭いた。
「さっき、わたしはゆうちゃんをいいように利用してしまったわ」
「どういうこと?」
「だから、わたしばっかり気持ちよくなったでしょ。ゆうちゃんを思い通りにしてしまったわ」
 遥は、申し訳なさそうに眉をひっそりさせる。
「遥はそんなことしてないよ。気持ちよくしてくれたし、いかせてくれたんだよ。遥は僕にやさしくしてくれたんだよ」
「それは、わたしが気持ちよくなるためなのよ。わたし自身を満足させるために、ゆうちゃんの心と体をいいようにしたのよ」
「そんなこと言ったら、僕だって、自分が快感になるために遥を利用したことになるよ」
「ゆうちゃんはそれでいいのよ。だって、こんなわたしを受け容れてくれるんだもの。ゆうちゃんのためだったら、なんでもするわ。でも、わたしがゆうちゃんを利用するのは、わたし自身が許せないの」
「そんなに思いつめて考えなくても、ただふたりで倖せな気持ちになれたら、それでいいんじゃないかな」
「最近、自分が怖くなるの――。大好きよ。世界中でいちばん好きよ。でも、大好きなゆうちゃんを利用してしまうわたしがいるの。もっともっとって、求めてしまうの」
「もっとって、なにを」
「ゆうちゃんの心よ。ゆうちゃんのすべてよ。このあいだ、居酒屋で飲み会をやったでしょ」
「うん」
 近所の弁当屋のおじさんが飲み会を開いて、店の常連が十数人集まった。僕たちは、惣菜コーナーの隅においてある焼き鳥が好きで夜になるとよくその店へ買いに行き、焼き鳥が仕上がるまでの間、店の主人やほかの常連客と世間話をした。人見知りの激しい遥はおじさんともほかの人たちともほとんど話したことがなかったけど、気さくな弁当屋のおじさんは遥のことも誘ってくれたのだった。
「あの時、ゆうちゃんはほかの女の子と楽しそうに話していたでしょ」
「ああ、あの子のことか。話したけど、べつに好きとかそんなんじゃないよ。にぎやかな子だったから、話が弾んだだけだよ。お酒も入っていたし」
「わかってるわ。でもね、わたしはすごく妬いてしまったの。楽しそうなゆうちゃんの笑い声が心に突き刺さるようだったわ。わたしの彼氏になんで話しかけるのよって、あの子にいらいらしちゃった。愉快になってるゆうちゃんもゆうちゃんだって。わたし、もうすこしのところで、ゆうちゃんの手をひいて帰るところだった。早く家へ連れて帰って、誰もいないところでゆうちゃんを独り占めにしたかったの」
「誰にでもあることだと思うよ。僕だって、遥と初めて出会った頃は、遥が誰かと話していると気が気じゃなかったもの。遥が僕の目の届くところにいないと落ち着かなかったし。今でも、時々そうなるよ」
「誰にでもあることだから、気をつけなくちゃいけないのよ。わたしはそんな自分が許せないの。嫉妬心、独占欲、そんなものが心でうごめいているのに、それで愛してるなんて言えるのかしら」
 遥は顔をあげ、まっすぐ僕を見つめる。ひたむきな瞳だった。
「そんな完璧にしなくてもいいんだよ」
「みんなそう思って、自分をだめにしちゃうのよ。いろんな人が欲望の誘惑に負けてだめになってしまったのを見てきたわ。そんな人はまわりも巻き添えにしてしまうの。自分の欲望のために人を利用するから。自分のルールを人に押しつけようとするから。人を自分の思うようにしたいから。人を自分の世界に住まわせようとするから。わたしのおかあさんも、おとうさんも、おばあちゃんもそうだった。自分の欲望を振り回して、人を損なってしまうのよ。でも、わたしはそんなふうになりたくない。これ以上、もっともっとって求めたら、ゆうちゃんは息苦しくなってしまうわ。ゆうちゃんの命も心も粗末にしてしまうわ。このままだと、ゆうちゃんを求めるばかりに、大切なゆうちゃんをだめにしてしまうわ」
「愛しているから、いろんな感情がわくんだよ。いい感情も、悪い感情もね。それを乗り越えるのも愛だし、勇気なんじゃないかな」
 遥がどうしてそんなに思いつめるのか、僕にはいまひとつうまくのみこめなかった。だけど、遥が大切なものを追い求めていることだけは十分すぎるくらい理解できた。僕は、そんな遥が好きだ。
「僕が恋の達人だったらいろんなことを言ってあげられるのかもしれないけど、初めての恋だから手探りなんだ」
「わたしもそうよ。なにもかもが初めてだもの」
「だからさ、いろんなことがゆっくりわかるようになればいいんじゃないのかな。僕たちは、知らないことがまだまだ多すぎるんだよ」
「でも――」
「だって、わからないことだらけだろ」
「そうね」
 遥は自分の心をしずめるようにゆっくりまぶたを閉じ、
「ゆうちゃんの言うとおりかもしれない」
 とうなずいた。
「悲しませてごめんね」
 僕は白い額に口づけた。
「遥を悲しませてしまうのが、いちばんつらい。とりかえしのつかないことをしてしまったみたいで、どうしていいのかわからなくなってしまうんだ」
「ゆうちゃんはなにも悪くないわ。わたしがいけないのよ。わたしの問題なのよ」
「遥の問題は、僕の問題なんだよ。遥の涙はふたりのものだよ。忘れないで」
「ごめんなさい。こんなにやさしくしてくれるのに、いいようにしようとしてごめんなさい」
 話はまた初めのほうへ戻ろうとしていた。いけない兆候だった。遥はかたくななところがあって、一度思いつめてしまうとずっと堂々巡りを繰り返すことがある。
「じゃあさ、こうしようよ。さっきは遥の思い通りにしたから、今度は僕が思い通りにするね。これでおあいこ。それでいいだろ」
 僕は遥の肩を吸った。小さな花が白い肌に咲く。これで遥の抱えている問題が解決するとは思わなかったけど、すこしでも遥の気が軽くなればと願った。
「ゆうちゃんの体が冷えてしまったわ」
 遥は、僕の背中を抱きながら言う。
「ふたりであたたまろう」
 僕は、遥のやわらかなショートヘアーをなでた。遥の匂いがする。清らで芳《かぐわ》しい香りだ。僕は、そっと遥を誘《いざな》った。



(続く)

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