ある日の夕方、そろそろ終業時刻になりかけた頃、アシスタントのアニメちゃんがため息をついた。ずっと翻訳作業を続けていたので疲れてはててしまったようだ。
「ああー」
と彼女はアニメ声で言い、両手を広げて机に突っ伏す。お猿さんのぬいぐるみのようだ。
「こら、寝たらだめ。疲れたんだったら、そのあたりを散歩して気分転換してきなさい」
僕は机をこつこつ叩いた。翻訳は根を詰めるのでたしかに疲れる。それはわかるのだけど、がんばってもらわなければならない。
「野鶴さん、残業したくないです。残りは野鶴さんがやってください」
「あのなあ。君の責任で仕上げなさいって言ったんだから、最後までやらなくちゃだめだよ。今日中に仕上げなくっちゃいけないから、終わるまで残業だよ。残業代がつくんだからいいだろ」
「ついてもつかなくても、残業はしたくないですぅ」
一般的にいって、中国人は残業したがらない。自分の生活のペースを乱されるのが厭なようだ。
「僕なんか残業代なしでいっぱい残業してるんだぜ」
「野鶴さんは典型的な日本人で人生灰色って感じですよね」
「人の人生を勝手に灰色にすんなっ。なんで人生灰色だなんてそんな日本語ばかり覚えるんだよ。――とにかく、きちんとやりなさい。上司に向かって残業したくないなんて言ったら、普通は馘《くび》になるんだぞ」
引き締めなければいけないと思ってヘッドロックしようとしたら、
「正直、残業はしたくないです。ますますしたくないですぅ。でも、社会へ出たら正直はいけませんねぇ」
としょぼんとしたアニメちゃんはしみじみつぶやく。僕はヘッドロックする気力が失せてしまった。
たしかに、残業したくもないのに夜遅くまで仕事したりしているのだから、日本人は他人にも自分にも嘘をついているのかもしれない。
正直でお気楽な君がうらやましいよ。
生まれ変わったら、広東人の女の子になろうかな。
(2012年4月25日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第171話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/