風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

披露宴のイスラム教徒専用テーブルin雲南(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第294話)

2015年06月17日 06時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 雲南省のとある町で結婚披露宴へ行ったことがある。
 中国の披露宴は日本と違って自由参加型だ。もちろん家族と主だった親戚はステージの近くに坐るけど、あとの人たちは自由席。当日、飛び入りで参加してもまったく問題ない。食事は大皿料理をみんなでつつくから、多少人数が増えたところで椅子と食器を追加すればそれですんでしまう。
 雲南人の友人が元同級生の結婚披露宴へ行くというので連れていってもらったのだけど、ホテルのレストランの会場で適当に坐ろうとすると、
「そこはだめ」
 と友人が言う。
 なんでも、イスラム教徒専用のテーブルだそうだ。言われてみればそのテーブルだけ違う料理がならんでいる。イスラム教徒は豚が御法度なので豚肉抜きのイスラム教徒用メニューを用意してあるのだ。雲南省は回族と呼ばれるイスラム教徒がわりと多い。回族の顔立ちは漢族とあまりかわらない。イスラム教徒に改宗した漢族といったところだ。友人は回族ではないので、普通の席に坐った。回族料理もおいしいから舌鼓を打ってみたかったのだけど。
 友人は、披露宴が始まる前に回族のテーブルへ行って回族の同級生とすこしおしゃべりをした後、普通のテーブルへ戻った。披露宴の開始前から終了まで、回族は回族同士だけでかたまって坐ったまま。回族とほかの人たちが会話することはあまりなかった。
 いっしょに食事をしながらおしゃべりをして仲良くなるというのは社交術の基本だ。だが、料理もテーブルも違っていたのでは仲良くなるのにも限度があるのかもしれない。食べ物のタブーは信者同士の結束を固めるのには都合がよいだろうけど、他の宗教の人々との交流のさまたげになってしまう。
 もちろん、食事がいっしょにできないことはほんの一例に過ぎないのだけど、イスラム教徒がほかの民族と打ち解けるのはなかなかむずかしいのかもしれないとそのときふと思った。

 


(2014年4月6日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第294話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


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