父の風
いつの間にか、空には夕焼けが忍び込んでいた。椰子林が茜色に染まっている。南国特有の鮮やかな美しさだった。みずみずしい夕焼けの上に澄んだ翡翠色の帯が一本描かれ、昼と夜を隔てていた。自転車が次々と道を通り過ぎる。自転車の群れを縫うように小型バイクが追い抜く。道端には人がぞろぞろ歩いていた。夕方の帰宅ラッシュなのだろうか。こんな田舎道にどうしてこんなに人がいるのだろうと思うほど、道は自転車で溢れかえった。白いアオザイを着た少女たちが自転車に乗って目の前を通り過ぎる。裾が風で翻り、濃い赤銅色の流麗な太腿が見え隠れした。
「きれいね」
イファが目を細めた。
「そうだね」
僕は相槌を打った。
「それで、リリィさんはアメリカへ帰ってしまったのね」
「そうだよ。五六年くらいはクリスマスカードを交換してたんだけど、それも途切れてしまった。どうしているのかなって今でもときどき思うんだ」
「好きだったの?」
「え?」
「だから、リリィさんのことよ。素敵な人だったみたいね。わたしも会ってみたいわ」
「そんなんじゃないよ。ただ、あこがれたんだ。リリィの澄んだまなざしを想い浮かべると、今でも胸が熱くなってしまうよ」
「それを恋したっていうのよ」
「だから違うってば」
僕は照れくさくなって頭をかいた。
「マモルがそういうなら、そういうことにしておきましょ。ずっとどきまぎした顔をしながら話してるんだもの。誰だってわかるわよ」
イファはころころと笑った。
子供たちの笑い声がひときわ高く響いた。
すぐそばでスウェーデン人の女の子がベトナムの子供を二の腕に掴まらせ持ち上げて遊んでいる。ベトナム人の幼子が彼女の周りに集まり、嬉しそうに不思議そうに彼女を見上げる。
「がんばって。あなたはいいお母さんになりそうね」
イファが彼女に声援を送った。
「私はレズビアンだから子供は生まないよ。子供は好きだけどね」
スウェーデン人の女の子は鼻孔を膨らませながら豪快に笑い、幼い女の子を片手で高く放り投げ、落ちてきたところを抱きかかえた。女の子はまぶしい笑顔ではしゃいでいる。子供たちから歓声ともため息ともつかない声が上がり、今度は自分を持ち上げて欲しいと次々に手を伸ばす。
「平和だね」
僕がつぶやくと、
「それがいちばんよ」
とイファはにっこり微笑んだ。
バスは出発しそうもない。
あたりが薄暗くなった頃、イファとスウェーデン人の女の子と三人で道端の食堂へ入った。見かけは粗末で小さそうだったけど、裏へ回ると裸電球で照らした庭にテーブルがいくつも並べてあって案外広かった。テーブルは地元の人々で埋まっている。酒盛りをしている客もいて賑やかな笑い声が響く。
片隅のテーブルに座り、そぼろ肉入りのフォー(米粉の麺)を注文した。イファはスウェーデン人の女の子がレズビアンであることにかなり興味をもったらしく、根掘り葉掘りといろいろ質問する。彼女はストックホルムの港でフォークリフトの運転手をしながら八歳年下の女の子と同棲しているのだと言った。
フォーを食べ終えた頃、上品そうな白い顎鬚をたくわえた老人が席にやってきた。顔貌は華僑系だが、広がった鼻梁と厚い唇はベトナム風だった。
「日本の方ですか」
老人は落ち着いた英語で僕に問いかける。
「そうですけど」
僕が答えると老人は穏やかに瞳を光らせた。
「やはりそうですか。私は日本へ行ったことがあります。一九六二年のことでした」
「旅行ですか」
「いいえ、仕事でです。東京の会議に出席したのですよ」
「日本はどうでしたか」
僕が訊ねると、老人は好い国だったと言い、東京の街の印象や会議の後日光で観光したことを語った。
「でもなにより良かったのが東京のホテルでした。ホテルオークラに泊まりました。豪華で綺麗ですし、サービスも良くて快適でした。もっと泊まっていたかったくらいです」
老人は懐かしそうに言い、昔の光景を思い出すかのように目をそっと瞬いた。僕は老人の風貌に惹かれた。人生の華やかだった頃の話とは裏腹に、むしろ華やかな時代があったからこそかもしれないけど、深い皺に長い歳月の辛苦が刻みこまれ、老人の瞳には底知れない悲しみが漂っているように思えた。
「写真を撮ってもいいですか」
「かまいませんとも」
老人は丁寧に肯いた。僕はリュックからニコンのF2を取り出した。老人に座ってもらい、父さんならどう撮るだろうと思いながら構図を考え、老人だけの写真を一枚写した。次にイファたちに周りを囲んでもらい、絞りやシャッタースピードの設定を直してシャッターを切った。
「私が撮ってあげるわ」
イファが立ち上がった。僕はイファが来るのを待ち、「この位置からシャッターを切ってくれればいいから」と言ってカメラを渡したのだけど、イファはファインダーを構えているうちに笑い転げ、しゃがみこんでしまった。振り向くとベトナム人の若者がテーブルの後ろでおどけたポーズを取っていた。
「ごめんなさい。どこから撮ればいいのかわからくなってしまったわ。これを廻せばいいのね」
イファはようやくのことでレンズを廻してピントを合わせ、シャッターを切った。撮影が終わると老人は穏やかに微笑み、お辞儀した。
「写真を送りたいので、よかったら名前と住所を書いていただけませんか」
僕は老人がうなずくのを見てメモ帳とペンを差し出した。老人は節くれだった手でペンを握り、風雅なアルファベットで名前と住所を書いた。
「そうだ」
老人はポケットから財布を出し、そのなかから一枚のモノクロ写真を取り出した。フランス風の洋館の玄関で壮年だった頃の老人を取り巻いている家族の集合写真だった。老若男女合わせて十二人ほど写っている。上流階級の家なのだろう、子供まで背広を着て、皆身なりの良い格好をしていた。若き日の老人は真ん中に腰掛け、背広に身を包みながら右手に帽子を持ち、満ち足りた顔でカメラを見据えている。
白黒写真が僕になにか呼びかけている。ふと、写真のなかから「こちらを見てください」と指示を出す父さんの声が聞こえた。
「私の一族の写真です。日本人のカメラマンに撮っていただいたのですよ」
老人は言った。
「日本人……」
僕は写真を見つめた。
――そのまま、動かないで。
また父さんの声がする。その声が心の隅々にまで静かに拡がる。僕は写真を見つめ直した。カメラを操作する父さんの息遣いが聴こえる。確かに、はっきりと。心臓が早鐘のように打つ。
「撮った日本人の名前は覚えておられますか」
「さあ、なんという方でしたか。随分昔のことなので、もう忘れてしまいました」
老人は首を傾げた。
「いつ頃の写真なのでしょうか」
「一九六九年です」
僕が生れた年だ。その頃、父さんはベトナムにいた。老人は身じろぎもせず写真を見つめる。その瞳が潤んでいた。
「戦争で散りぢりになってしまいました。今は遠い親戚の世話になりながら独りで暮らしています。長い間、家族を探し続けたのですが、みんなどこへ行ったのかわかりません。たぶん死んでしまったのでしょう。この写真が最後の想い出なのです」
老人はハンカチを出し咳き、
「つまらない話をしてしまいました。好い旅行をなさってください」
と穏やかに微笑み席を立つ。僕はまだ話を聞きたい衝動にかられた。もう少し詳しく聞き出せば、老人の記憶が甦り、誰が撮影したのかを思い出してくれるかもしれない。父さんが撮ったのだと言ってくれるかもしれない。だけど、力なく震える老人の背中を見るとなにも言えなくなった。孤独が幾重にも積み重なった背中だった。僕は開きかけた唇をそっとつぐんだ。
運転手がもうすぐ出発だと呼びに来た。
バスのなかで出発を待っているうちに空が轟き、雷雨になった。暗い空に蒼い稲妻が走る。大粒の雨がバスの屋根を叩き、乾いた音が虚ろに響く。バスの中は肌寒い。僕は食堂で出会った老人と白黒写真のことをぼんやり考えた。
待ち疲れた僕はいつの間にかまどろんだ。夢とも現ともつかないぼんやりとした意識のなかで、僕は父さんの姿を探していた。村々を訪ね、人々に父の所在を問うのだが、手掛かりが掴めない。誰も彼も気の毒そうな顔をして首を振る。
ふと目が覚めた。
バスのエンジンがかかり、バスは徐行し始めた。対向車のヘッドライトが眩しい。僕は結露した窓を手で拭って暗い水田を見やった。稲が雨風に揺れ、その向こうに影絵のような椰子林が見える。バスはそろりと動いては停まり対向車をやりすごす。
「父さん、僕にも子供ができたんだ。女の子だよ」
僕はそっとつぶやいた。
轟音と同時に、ひときわ明るく雷が走った。道端に打ち捨てられた莚が蒼く浮かび上がった。
了