これまでの記事
・無為自然<1>~草刈をしていて気づいた「時間」の話し
・無為自然<2>~我ん張らない生き方
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子供が生まれた事は、実際とても劇的で、と同時に耕作面積も5倍近くに増えたので、まあとにかく時間的にも肉体的にも全然余裕がなくなりました。自分が自分のままではやっていけなくなるというか、やれるかやれないかを考えている余裕が無くなって、とにかくやるしかなくなりました。
減量中のボクサーは、最後には水が欲しくなるらしいのですが、人間、追い詰められるとこまで追い詰められて極限状態になると、本当に必要なものが見えてくるようです。
また、純粋無垢な赤ちゃんと一緒にいることで、大人になるにつれてまとってきた心のアカが、少しは剥がれたのかもしれません。
<無こそ有の源泉~固定観念の話>
いつだったか、とある番組に空手の達人が出ていて、「空手の極意は、何も持たないことにあるのでなく、何でも持てることにある」と言っていたのを聞いて、大変感銘を受けました。
同じように、生まれたばかりの心は無色透明なキャンバスのようなもので、もともと何の色もついてなければ何の絵も描いてありません。人はそこに、好きなように色をつけたり絵を描いたりできる自由を持って生まれてくるのです。
ところが大抵の人は、大人になるにつれて色に染まり、絵が増えてきた世界を、いつしか自分で自分に描いてきたものであることを忘れて、もとから描いてあったものであるかのような錯覚をしながら生きてしまいます。それが固定観念というものです。
同じものを食べて美味しいと感じる人もいれば、不味いと感じる人もいる。
それぞれの人の描く世界が違って当然なのに、それぞれに自分の描いた世界をこの世の正しい姿である、と固定観念を主張し合うことで、すれ違いや、いざこざが起きます。
実際、お互いにこのことを分かっている人同士だと、意見の「交換」が行われるだけで、「衝突」は起きないのです。
逆に、例えば、同じ宗教を信じる人同士は、同じ絵の世界を共有しているもの同士。
それこそ「自分たちの絵こそ絶対」と信じることを人生にしてしまっている場合が多いので、どうしても、他の絵に生きる人たちとは解り合えません。
本来の宗教、信仰とは、神様がいることを信じることではなく、神様のすること(与えられる運命)を信じ、受け入れ、委ねきること。
人類が全体としてそれに気づき、一人ひとりが自立、自信できる未来がいつか来たらと思います。
心は無色透明なキャンバス。
人はそこに、どんな絵を描くのも自由、そして消すことも自由です。
(無為自然編・完)
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