久し振りにヤンチャなインプラントDRのヤンチャだった頃のお話を書きます。
鹿児島県出水市武本で生まれた私、母方松元の実家で待ち望まれた直系の男の子として誕生した為に、祖父が大事に大事に育てていた菊の花をおままごと遊びでチョッキンしてしまっても、祖父は何も言えなかったと言うエピソードを書かせていただきました。
それだけ祖父に可愛がられた孫にもかかわらず、力道山とかのテレビだけは決してアニメに変えてはくれなかった、と言う祖父と私の笑い話も書きました。
今日も出水でのその後のエピソードを綴りましょう。
うちの実家の裏には小さな水路、川が流れています。
昔は、祖母や母はその川に洗濯とかに行くのが常でした。
昭和36年頃は、日本全国の何処の田舎でも、母親は水路、川に洗濯に行くのが普通だったのです。
今の若い方には、全く信じられないでしょうが、それが当り前でした。
お風呂の水とかも汲んで来て入れるのが当り前で、しかもいわゆる五右衛門風呂と言う蓋を沈めて入ると言うのが普通でした。
便所は離れにあって、勿論ボットン式。
木の板が貼ってあるだけで、穴が開いているだけの代物でした。
エアコンもありませんし、洗濯機も、冷蔵庫だって氷を入れて冷やすものでした。
暑い夏になると、蚊帳を張って寝るのが当り前、戸締りなんかしなくても安全で安心出来る、そう言うのが日本の田舎だったんです。
今でも、田舎ではさして戸締りなんか気にしない方がいるでしょう。
昭和30年代は日本は、全然発展途上の国だったんです。
それが、東京オリンピックが39年にあり、大阪万博が45年、エキスポ70で見る見る変わって行ったのです。
鹿児島本線に機関車が走っているし、東京に出るのに2泊位当り前、今のように鹿児島に帰るのに直ぐにジェットで帰れる、それこそビジネスで日帰り出来るのが嘘のようです。
私は35年12月生まれですが、おぼろげながら日本の原風景、古き良き姿が実体験として残っています。
家の裏にある水路、小川で洗濯し、お風呂の水汲みをする、井戸水がない所では汲んで来た水が生活の水そのものだった事でしょう。
それ位、水路、小川の水は綺麗だった時代なのです。
今では考えられない事でしょう。
今なら差し詰め、浄水器を通して使うのではないでしょうか。
実家の裏の小川は、幅80cm位、深さも20cm位でした。
当然、2歳児のヤンチャ坊主の私にとっては遊び場の一つ、水遊びの場としては格好の場なのでした。
隣の家の1歳上の幼馴染の女の子といつも一緒に遊んでいたそうで、そこでもジャブジャブ水を飛ばしたり、流れに入って遊んだりしていました。
状況はどう言う状態だったのかは全く覚えていないのですが、ヤンチャ坊主の私はいい気になって小川に入って遊んでいた所、足を滑らせて転んで流れに呑まれてしまったのです。
ガボンと頭が後ろに、仰向けに転んで水に沈み、流されました。
不思議な事にその場面を良く覚えているのですが、水が顔の上を流れ完全に体全部沈み、川底から見えているユラユラとしていた景色を割りと冷静に眺めていました。
死と言うものを幼いながら意識したのも覚えています。
死んじゃうボク、と言う感じに一瞬なっていたのです。
その次の瞬間、右腕を摑んでザボッと引き上げてくれる助けがあり、私は救われました。
ノリツグちゃんな、大丈夫な、と叫んで助けてくれたのは隣の家のお婆ちゃん、幼馴染の祖母の方でした。
そのお婆ちゃんが瞬間に引き上げてくれたお陰で、私は命拾いをしたのです。
実はこのお婆ちゃんは、私にとって直系の曽祖父の弟さんのお嫁さんで、私の曽祖父は隣の家から婿養子でうちに来られたと言う関係、親戚なのです。
ですから、私が待ち望まれた男の子だと言うことが凄く良く分って下さってる方でしたので、必死で救ってくれたのです。
私は、水底に沈んでいた時には落ち着いていたくせに、助け上げられた瞬間、恐怖が込み上げて来たのか、ワーン、と大泣きしだして、びしょ濡れのままトコトコと家に帰って行きました。
勿論、幼馴染もそのお婆ちゃんも直ぐに続いて我が家に直行し、ノリツグちゃんが川に落ちた、溺れ掛けた、と大騒ぎになりました。
小川とは言え、意外に流れの速い川ですから、そのまま流されていたら間違いなく命を落としていた事でしょう。
赤ん坊とか子供は、まかり間違えば水溜りでも溺死してしまうのですから、あの瞬間救われていなかったら、数分流されていたら今ここにはいなかったことでしょう。
熱湯背中一面に浴びてしまう、と言う事故でも、大変な事になっていた可能性は少なくなかった筈です。
そして、今回のエピソードでも、危なかったのは間違いありません。
ヤンチャ坊主で、動き回る子供だったからこそ、のヒヤヒヤするお話が、まだまだ恥ずかしいくらいあります。
昔懐かしいヤンチャ坊主、昭和と言う古き良き時代のお話。
これからも時々綴って行きます。
鹿児島県出水市武本で生まれた私、母方松元の実家で待ち望まれた直系の男の子として誕生した為に、祖父が大事に大事に育てていた菊の花をおままごと遊びでチョッキンしてしまっても、祖父は何も言えなかったと言うエピソードを書かせていただきました。
それだけ祖父に可愛がられた孫にもかかわらず、力道山とかのテレビだけは決してアニメに変えてはくれなかった、と言う祖父と私の笑い話も書きました。
今日も出水でのその後のエピソードを綴りましょう。
うちの実家の裏には小さな水路、川が流れています。
昔は、祖母や母はその川に洗濯とかに行くのが常でした。
昭和36年頃は、日本全国の何処の田舎でも、母親は水路、川に洗濯に行くのが普通だったのです。
今の若い方には、全く信じられないでしょうが、それが当り前でした。
お風呂の水とかも汲んで来て入れるのが当り前で、しかもいわゆる五右衛門風呂と言う蓋を沈めて入ると言うのが普通でした。
便所は離れにあって、勿論ボットン式。
木の板が貼ってあるだけで、穴が開いているだけの代物でした。
エアコンもありませんし、洗濯機も、冷蔵庫だって氷を入れて冷やすものでした。
暑い夏になると、蚊帳を張って寝るのが当り前、戸締りなんかしなくても安全で安心出来る、そう言うのが日本の田舎だったんです。
今でも、田舎ではさして戸締りなんか気にしない方がいるでしょう。
昭和30年代は日本は、全然発展途上の国だったんです。
それが、東京オリンピックが39年にあり、大阪万博が45年、エキスポ70で見る見る変わって行ったのです。
鹿児島本線に機関車が走っているし、東京に出るのに2泊位当り前、今のように鹿児島に帰るのに直ぐにジェットで帰れる、それこそビジネスで日帰り出来るのが嘘のようです。
私は35年12月生まれですが、おぼろげながら日本の原風景、古き良き姿が実体験として残っています。
家の裏にある水路、小川で洗濯し、お風呂の水汲みをする、井戸水がない所では汲んで来た水が生活の水そのものだった事でしょう。
それ位、水路、小川の水は綺麗だった時代なのです。
今では考えられない事でしょう。
今なら差し詰め、浄水器を通して使うのではないでしょうか。
実家の裏の小川は、幅80cm位、深さも20cm位でした。
当然、2歳児のヤンチャ坊主の私にとっては遊び場の一つ、水遊びの場としては格好の場なのでした。
隣の家の1歳上の幼馴染の女の子といつも一緒に遊んでいたそうで、そこでもジャブジャブ水を飛ばしたり、流れに入って遊んだりしていました。
状況はどう言う状態だったのかは全く覚えていないのですが、ヤンチャ坊主の私はいい気になって小川に入って遊んでいた所、足を滑らせて転んで流れに呑まれてしまったのです。
ガボンと頭が後ろに、仰向けに転んで水に沈み、流されました。
不思議な事にその場面を良く覚えているのですが、水が顔の上を流れ完全に体全部沈み、川底から見えているユラユラとしていた景色を割りと冷静に眺めていました。
死と言うものを幼いながら意識したのも覚えています。
死んじゃうボク、と言う感じに一瞬なっていたのです。
その次の瞬間、右腕を摑んでザボッと引き上げてくれる助けがあり、私は救われました。
ノリツグちゃんな、大丈夫な、と叫んで助けてくれたのは隣の家のお婆ちゃん、幼馴染の祖母の方でした。
そのお婆ちゃんが瞬間に引き上げてくれたお陰で、私は命拾いをしたのです。
実はこのお婆ちゃんは、私にとって直系の曽祖父の弟さんのお嫁さんで、私の曽祖父は隣の家から婿養子でうちに来られたと言う関係、親戚なのです。
ですから、私が待ち望まれた男の子だと言うことが凄く良く分って下さってる方でしたので、必死で救ってくれたのです。
私は、水底に沈んでいた時には落ち着いていたくせに、助け上げられた瞬間、恐怖が込み上げて来たのか、ワーン、と大泣きしだして、びしょ濡れのままトコトコと家に帰って行きました。
勿論、幼馴染もそのお婆ちゃんも直ぐに続いて我が家に直行し、ノリツグちゃんが川に落ちた、溺れ掛けた、と大騒ぎになりました。
小川とは言え、意外に流れの速い川ですから、そのまま流されていたら間違いなく命を落としていた事でしょう。
赤ん坊とか子供は、まかり間違えば水溜りでも溺死してしまうのですから、あの瞬間救われていなかったら、数分流されていたら今ここにはいなかったことでしょう。
熱湯背中一面に浴びてしまう、と言う事故でも、大変な事になっていた可能性は少なくなかった筈です。
そして、今回のエピソードでも、危なかったのは間違いありません。
ヤンチャ坊主で、動き回る子供だったからこそ、のヒヤヒヤするお話が、まだまだ恥ずかしいくらいあります。
昔懐かしいヤンチャ坊主、昭和と言う古き良き時代のお話。
これからも時々綴って行きます。