ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

張本勲氏

2014-11-12 20:24:43 | 徒然の記

 10月25日の千葉日報に、張本勲氏の記事があった。

 氏が、巨人軍にいた選手だと知らないほど野球オンチの、自分だが、それでも名前はシッカリ覚えている。終身三割打者だったと初めて知り、改めて敬意を表した。
氏は、偉業を大成させた条件として、「努力」「自己管理」「いい指導者に出会うこと」の三点を語る。

 一流と言われる人は、スポーツマンであれ、芸術家であれ、納得させられる一家言というか、信念と言うのか、立派な意見を持っている。立派な意見も信念もない私は、こうした人の言葉を聞くと、一も二もなく感心してしまう。

 そんな彼でも、死にたくなるような思い出があったと語る。
身に覚えのない事件で、休部させられたため、憧れの甲子園に出られなかった時の話だ。自分の韓国籍が原因だったと知らされ、電車に飛び込もうとまで思い詰めたという。
氏は、民族差別について語っているのでなく、半生を振り返り、自分がどういう努力をしてきたのか。今の野球界と若い選手には、何を伝えたいかなど、野球に関する話がほとんどだった。

 しかし、氏の言葉の断片に私は胸を突かれ、改めて考えずにおれなくなった。
「朝鮮人へのいわれない差別」・・、そういうものが、日本には確かにあったし、今もある。

 差別する側に強い意識がなくとも、された者の側には、怒りと悲しみと屈辱感が残る。学校でのいじめにも似て、やる方は軽い気持ちでも、やられた生徒には、死にいたる苦痛となる。

 昨今の韓国と北朝鮮とのトラブルのため、私は理屈抜きで、両国政府の対応に怒りを感じている。慰安婦でも、拉致犯罪のことでも、感情の方が先に立ち、南も北もあるものか、朝鮮民族はみんな許せないと、いきりたってしまう。

 だが、彼らの心の奥に、積年の差別への怒りと憎しみが、怨念となり、燃えているのだとしたら、私たちは、我が身を振り返る必要があるのではないか。理不尽な慰安婦問題や、拉致犯罪を、不問にしたり許したりしてはならないず、それはそれとして、韓国や北朝鮮と闘ってくべしだ。

 私が言いたいのは、明治以来日本人が抱いて来ている、「朝鮮人への差別意識」の見直しということだ。

 基本的には、世界のどの民族も、差別してはならないはずだし、それが正しいはずだ。しかし歴史が教えるのは、白人が有色人種を差別し、奴隷にしたり植民地にしたり、碌でもない事例が多い。

 大東亜戦争で、日本が完膚なきまでに叩かれ、ドイツ・イタリアと異なった処遇をされている事実の背後には、表立って語られないが、人種差別が横たわっている。だからこそ保守陣営の中には、その反動として、世界一優秀な日本民族の再興を、熱心に語る者が現われたりする。

 白人たちの差別思想を知ってか知らずか、左翼の人間たちは、日本蔑視と嫌悪の論を展開する。しかし、極論はいつだって、「過ぎたるは及ばざるがごとし。」だ。

 だから、私は右でも左でも、極論を叫ぶ人間には同調しない。

 張本氏の言葉で考えさせられたのは、「日本人としての反省」とでも言うのだろうか。
世界で人種差別が溢れ、沢山の人間が苦しみ、解決の糸口すら見つかっていない。それでも、「日本人としての反省」はやるべきだろう。

 当然ながらそれは、有田芳生氏が言うような、「日本人はヘイトスピーチをやめろ。」という次元の低い、政治的パフォーマンスではない。

 彼は日本の立派な左翼だから、自分だけを立派な場所に置き、日本人の差別行為を偉そうに攻撃する。自分も日本人の一人であり、愚かな人間の仲間であると言う自覚と、苦しみが、そこにはカケラもない。そんな人間の説教など、いったい誰が本気で聞くというのだろう。

 それに比べると、張本氏の言葉は、私のこころを強く揺さぶる。
彼は差別する日本人を、憎しみの言葉で攻撃していない、恨みや反感をぶちまけて、いない。事実を、事実として語っているだけなので、私は反省を迫られる。

 新聞では通名報道を止め、本名でニュースを伝えよと、要求する人間が増え、私もその意見に賛成している。中国人や韓国人、北朝鮮人の犯罪が多発している事情もあり、彼らを庇う必要はないと言う論理だ。日本の中にいて、反日を叫び、憎しみを煽り立てる彼らを見ていると、自分の国へ帰ったらどうだろうと、今でもその気持ちは変わらない。

 しかし、この「朝鮮人へのいわれない差別」については、私たち自身で、改めていく必要がある。張本氏のみならず、野球界にも、相撲界にも、あるいは芸能界、とくに歌謡界では、これらの在日の人々無しでは、事業が成り立たない実態だと聞く。それなのになぜ、韓国・朝鮮国籍の人々が、本名を隠し、通名で生きているのか。

 彼らが好んでしているはずはなく、私たちの社会にある差別意識が、そうさせているのである。本名を隠さなければ、暮らしていけなかったから、やむなく通名を続けるしかなかった。国籍を隠し、偽物の日本人として生きる彼らの気持ちも、真面目に考えてみる時が来ている。

 敗戦以来、米国の属国となり、手取り足取り支配され、国の歴史も国民の誇りも、捨てさせられた日本人も、情けない立場にいるが、韓国、朝鮮人の日々も、平穏なものではなかったはずだ。張本氏の言葉が、私にそれを教えた。

 さて、何時ものことながら、思考の糸が続かなくなった。張本氏のような一流のスポーツマンでなく、これが、市井のみみずという凡人の限界なのだろうか。続きはいつか書くこととし、今回は、自分自身への問題提起としておこう。

 千葉日報も、こんな記事の読まれ方をするとは、予想もしていなかったはずだ。
なんであれ、本日は、張本氏へ感謝しよう。

コメント (14)
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