やはりそうかと、妙に納得するものがあった。
都知事選挙の投票率が46.14%だったことを思えば、64.13%という比率には、重いものがある。翁長氏は現職の仲井真知事に、10万票の大差をつけた。左翼陣営が勝利を語り、民意だと浮かれるのにも反論はできない。
私たち保守の人間は、あれこれ、自己正当化の理屈を探すのでなく、今後のため、反省をするのが一番ではなかろうか。
沖縄のマスコミが偏向しているとか、プロ市民がとか、そうしたことは、最初から分かった上での選挙戦だったのだから、敗因を謙虚に再検討してみたいものだ。
いつも思うことだが、保守陣営には日々の活動がほとんどない。
平和とか人権とか、地域社会の安全とか、学校教育への支援とか、住民が必要としている問題に取り組んでいるのは、いつも左翼系の団体である。
私の住む千葉でもそうだが、住民が身近な問題として、悩んでいることがらを取り上げ、組織として取り組んでいるのは、左翼の息のかかったグループばかりだ。
地域に根ざした地道な活動を、保守系の人間はほとんどしていないし、そういう団体すらない。
保守政治家のリーダーシップもなく、活動する者への働きかけもない。市民活動と言えば、左翼がするものと、そんな認識が定着していることの間違いを、私たちはもっと考えてはどうなのだろう。
左翼陣営は、地域住民に近い所で、プロもアマも一体となり、日常の活動をしているということだ。パンフレットやビラを家々に配布し、議会の税金の無駄遣いや、環境破壊等々、住民の知りたいと思う問題を、途切れること無くフォローしている。
印刷費、配送費、配達者への人件費、更には膨大なパンフレットや資料の、作成・保管のための事務所費など、どこから出ているのだろうと、私は何時も不思議に思っている。こうした活動にかかる費用は、馬鹿にならないはずなのに、決して中断しない。政党からのものか、有志の献金なのか、団体からの寄付か、日々の活動が何年も続くと言う、この熱意を、どうして保守の人々は見習おうとしないのか。
市民運動は、本来左翼だけでなく、保守のものでもあるべきなのだ。
国会で反日・売国の野党が詰まらない質問をしたり、醜態を曝したりしても、それは一般の国民には見えない。自分もそうだったが、年金生活者になる前は、働くだけで日々が終わり、新聞は斜め読みで、テレビだって碌に見なかった。
だから左翼の市民活動が、多くの人間の注意を引くのである。暮らしに直結する問題を、忙しい住民に代わり、活動家たちが追求してくれるのだから、有り難いとさえ思ってしまう。
運動に参加している一般住民には、善意の人間が多く、近所の顔見知りの、優しい人物であったりもする。左翼政党の計画でされている活動だということを、こうした人々は知らず、人のためになる良いことをしていると確信している。
沖縄だって同じことだろう。
私たちは、過激で憎らしい活動家たちばかりに目が向いているが、きっと現地の365日を観察したら、千葉県と同じ状況になっているのではなかろうか。市民活動の中に、知り合いの人間が多数いるとしたら、彼や彼女たちの意見は、住民から無視されるはずがない。
私には、そう思えてならない。
沖縄はおろか、日本全国の、地方住民の日常活動は、左翼陣営の網の中にいるようなものだ。慰安婦問題に関し、政府への抗議を決議した、地方議会の数の多さを見れば、杞憂とばかりは言っておれない。だから、政治家も私たちも、保守の市民活動というものを、もっと本気で考えなくてはならない。
国を思う保守政治家なら、政党の足腰となる、市民活動の重要性に目覚めてもらいたい。共産党や民主党のように、活動資金の準備、リーダーの育成などに力を入れてもらいたい。「チャンネル桜」の細々としたネット報道に任せ、安心しているのなら、戦後レジュームからの脱却などできるはずがない。