野原明氏著「戦後教育五十年」(平成7年刊 丸善ライブラリー)を、読了。
偶然本棚から取り出した本が、続けて、戦後教育に関する書でした。福田氏の本と同様、文庫本で、180ページしかありませんので、一気に読みました。普段は著者の略歴に目を通し、それから読むのですが、今回は先に本を読みました。
福田氏より6才年下の野原氏は、福田氏と同じ大阪で生まれ、同じ京都大学へ進んでいます。昭和33年、大学卒業後に朝日放送の記者となり、その後なぜかNHKへ移り、解説委員となっています。退職後は、文化女子大学教授、帝塚山学院大学客員教授などを、歴任しています。
氏の本は、昭和天皇の玉音放送で始まります。
「50年前の8月15日、当時国民学校4年生で、」「田舎の寺に集団疎開していた筆者は、」「村の有力者である農家の庭に整列して、」「ラジオから聞こえてくる、昭和天皇の玉音放送を聞いた。」「雑音が多く、聞き難い放送だったが、どうやら、」「戦争が終わるらしいことは、感じられた。」
「昨日まで、日本は神の国であり、」「鬼畜米英と教えられていたが、今日は、」「日本は間違った戦争をしていた、」「アメリカやイギリスの民主主義に、学ぼうというのだから、」「子供心にも、矛盾を感じるのは当然だった。」
「教科書の軍国主義的な文章に、墨を塗り、伏字だらけなものにし、」「それまで、絶対に誤りがないと、信じていた教科書までが、」「信じられないものになってしまった。」
福田氏が高校教諭として、現場での実践から本を書いているのに対し、野原氏は、ジャーナリストの立場から、日教組と文部省の闘争史を中心に、著作をまとめています。
両氏の共通点は、戦前の日本を間違ったものとして否定する、思考です。高い価値を置くのは、アメリカがもたらした「平和」「人権」「自由」と、「戦争放棄」の理念です。
本が出版された平成7年(1995年)は、氏の説明によりますと、画期的な年です。
「今年日教組が、自由民主党との和解に続き、」「文部省との間で、協調路線をとるということを、」「運動方針の中で、明らかにするに至った。」「これまでの反対、阻止、粉砕の路線から、」「参加、提言、改革の路線に、名実ともに転換しようというのである。」
平成7年に、こんな大転換がされたことを、私は知りませんでした。この本は、日教組の歴史的転換を節目として、出版されたのです。
今にして思えば、日本国憲法も、日教組も、戦後のあの時代、敗戦の衝撃で挫折した国民に、明日への希望を示唆し、自己主張することの大切さを教えました。多くの流行が、時代とともに変化しますが、日本国憲法と日教組も、日本という土台に接ぎ木された、あだ花でしかなかったのでないかと、私は思います。
年月が経過し、日本の土壌に、本来の花木が再生しますと、接ぎ木はもう要らなくなります。役割を終えた接ぎ木は、余計なものとなった。というより、日本古来のものの生育を阻害する、やっかいな外来思考として、なってしまいました。
福田氏にしても、野原氏にしても、正直で、一途な人間だったため、敗戦後の衝撃から、抜け出すことができなかったのでしょうか。勝った勝ったという大本営の発表や、神国日本の聖戦だと国民を鼓舞した政府が、間違っていたと否定されたのですから、怒りや憎しみが生じるのも、理解できます。
敗戦後40年が経過し、多くの情報が公開されるようになっても、それでも、玉音放送の呪縛から逃れられない両氏に、私は同情します。
「日本だけが間違っていた。」「日本だけが、悪の戦争をした。」・・このレッテルは、連合国が日本を裁くために作った、プロパガンダでしたのに、両氏は気づきませんでした。あの戦争は、互いが権謀術数を巡らせ、相手も負けずに悪かったと、その常識にまでも、戻れませんでした。
こう言う私も、中学生だった頃から、朝日新聞の、恵まれない人々への思いやりや、虐げられた者への愛など、数え切れないほどの記事を読みました。こんな立派な新聞社があると、誇りにさえ思っていました。
行方不明だった共産党の伊藤律氏と、会ってもいないのに、会見記事を大スクープにしたり、サンゴ礁に自分が傷をつけていながら、環境破壊と捏造の写真を掲載するとか、それでも私は、定期購読を続けていました。
朝日を止めたのは、あの慰安婦報道の捏造があったからです。嘘の記事を韓国が真に受け、日本への悪口雑言を繰り返したので、やっと目が覚めました。定期購読者だった、あの40数年間を振り返ると、両氏ばかりを責められない自分がいます。
しかし両氏には、日教組につき、いろいろ教えてもらいました。
「日教組は、総評とともに、ストライキ権の奪還を目標に、」「実力行使を拡大していくが、組合幹部への処分が増え、」「救援のための組合費負担が大きくなり、」「無関心層の増加も手伝い、組織率が大きく低下していく。」「昭和30年代に約90パーセントだった加入率が、60年代には50パーセントを切るに至る。」
こういう話は、初めて知りました。しかし、最も大きな変動があったのは、昭和57年に行われた、労働戦線の統一問題でした。
要約しますと、「連合」に加盟するか否かで、日教組の執行部が割れてしまったのです。賛成する社会党系の組合と、反対する共産党系組合の対立が、激しい抗争となります。
同じ左翼といっても、路線の対立は深刻で、原水爆反対運動ですら、今では、社会党系と共産系の二つの団体が、いがみ合いつつ運動しています。平和や人権と口で言いながら、殺人も辞さない内部抗争をするのが、左翼団体の特徴です。
日教組内での対立は、400日にも及び、「400日抗争」と呼ばれています。結果として、日教組は二つに割れ、主流派の社会党系の組合が「連合」に加盟し、反主流派の共産党系組合が「全日本教職員組合協議会(全教)」という、おそろしく長い名前の組織を立ち上げます。
日教組は、全教に加盟した組合を、除名処分で対抗し、ここでやっと、日教組の路線変更の話につながります。
「反対、阻止、粉砕の路線から、」「参加、提言、改革の路線に転換した。」背景には、過激な共産党が抜けたという事実がありました。社会党だって、当時は何でも反対の党でしたが、共産党はもっと過激で、破壊、粉砕の政党でした。
社会党でも共産党でも、マルクス主義を信奉する限り、私には、同じ反日・亡国の党ですが、野原氏の考えは違います。戦いを放棄するのは正しいのかと、むしろ協調路線に疑問を呈しています。
ここで参考資料として、「日教組の組合綱領」と、「教師の倫理綱領」を、転記致しましょう。こういう時でないと、わざわざ目にする機会がありません。
[ 日教組の組合綱領 ]
1. われらは、重大なる職責を完うするため経済的、社会的、政治的地位を確立する。
2. われらは、教育の民主化と研究の自由の獲得に邁進する。
3. われらは、平和と自由とを愛する民主国家の建設のため団結する。
[ 教師の倫理綱領 ]
1. 教師は日本社会の課題に答えて青少年とともに生きる。
2. 教師は教育の機会均等のためにたたかう。
3. 教師は平和を守る。
4. 教師は科学的真理に立って行動する。
5. 教師は教育の自由の侵害を許さない。
6. 教師は正しい政治を求める。
7. 教師は親たちとともに社会の退廃とたたかい、新しい文化をつくる。
8. 教師は労働者である。
9. 教師は生活権を守る。
10. 教師は団結する。
左翼系の政党が目標としたのは、ソ連と中国・北朝鮮でした。社会主義の本山だったソ連が崩壊し、後には、国民を弾圧する独裁国家の中国と北朝鮮が残りました。このまま推移すれば、日教組は、獅子身中の虫を育てる、「お花畑」でしかなくなります。
長くなりましたが、結論は、この本も「日本に害をなす悪書」だ、ということです。資源ゴミとして、迷わず金曜日に処分いたします。