ねこ庭の独り言

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戦争と沖縄 - 7 ( 廃藩置県と琉球処分 )

2018-07-14 22:03:02 | 徒然の記

 本日は、沖縄の廃藩置県と琉球処分についてです。まず氏の説明を紹介します。

 「沖縄から支援を乞われた清国皇帝は、明治政府に対し、琉球処分について抗議を行いました。」「ちょうどその頃、世界旅行で中国に来ていた、前アメリカ大統領のグラントに調停を依頼し、そのために、琉球の廃藩は、いっそう複雑な問題になりました。」

 「グラントは日本に来て明治政府と交渉し、宮古島と八重山島を、中国の領土にする、という分島案を進言しました。」「この上で、日本と清国で交渉が行われ、日本政府が出した、宮古、八重山を沖縄から分島し中国へ渡す。」「そのかわり、日清修好条約を改正し、日本に欧米並みの中国貿易を認める、という案で妥結しました。」

 「明治14 ( 1881 )年の1月から、効力を発揮することとなっていましたが、国内で妥結案に反対する意見が出たため、皇帝は日本政府に、改めて交渉を申し入れてきました。」「ところがその後清国はこの問題を取り上げなくなり、」「琉球藩の分島問題は、立ち消えになってしまいました。」

 清の皇帝が大国の度量を示し、日本に抗議をしなくなったのかと、氏の説明ではそんな誤解が生じます。1880年代の中国を調べますと、理由がすぐに分かります。

 1840年にアヘン戦争でイギリスに敗れ、香港を割譲した中国は、1856年には、第二のアヘン戦争と言われるアロー戦争で、またイギリスに負け、九龍を割譲しました。同じ年にロシアにも負け、外満州を割譲しています。

 1884年にはベトナムの領有権をめぐり、フランスとの間で清仏戦争が勃発するのですから、清国には琉球問題に関わっている余裕がなかったのです。列強の侵略を受け、自国の領土を守るのに精一杯でした。

 「このため日本と清国の間に取り交わされていた、琉球の分島問題は、」「全部白紙に戻った。」と、氏は事実を正確に書くべきでした。捏造とまでは言いませんが、大切なことを故意に省略するやり方は、どうも頂けません。次の説明には、日本政府への悪意が感じられます。

 「その上日本政府にとって都合の良いことには、明治5 ( 1872 ) 年に、沖縄の宮古島の船が台湾に漂着し、乗組員のほとんどが、台湾の原住民に殺されるという事件がありました。」

 「明治政府は、日本の属民(沖縄人)を殺害した台湾の生蕃 ( 高砂族 ) を成敗する、という立場をとり、台湾が清国の領土だったため、多額の賠償金を取っていました。」

 「日本政府はこの事件を盾に取り、これは清国が、沖縄人を日本の人民として、認めたことになるといって、琉球の廃藩を推し進めてしまいました。」

  池宮城氏は、沖縄人は日本人だと明言しましたが、もしかすると氏自身は、中国志向の頑固党の子孫だったのでしょうか。全ては日本が一方的に進めたという説明です。

 中華思想の清国にとって、中国以外の民族は野蛮な未開人ですから、沖縄の漁民が殺されても、関係のない話と無視し続けました。沖縄人を日本人と考えている明治政府が台湾征伐に兵を向けることの、どこに不都合があると氏は言いたのでしょう。賠償金支払いの事実を元に、明治政府が「清国が、沖縄人を日本人として認めた。」と主張することが、なぜ強弁なのでしょう。

 宮古島の漁民が多数殺されても、何もしなかった琉球王朝の人々に比べれば、血を流して戦った本土の人間に、むしろ氏は感謝すべきです。

 罪もない日本人が、100名を超えて北朝鮮に拉致されているのに、40年以上放置している今の政府に比べれば、当時の政治家たちの方がずっと輝いて見えます。拉致問題の横道を避け、氏の著作へ戻ります

  「このようないきさつをへて、沖縄は日本の一つの県として、出発することになったのです。」「明治12 ( 1879 ) 年3月27日、160人の警官と、400人の軍隊を引き連れた松田道之によって、琉球処分は強行されました。」

 「首里城は明け渡され、尚泰王は東京へ移されることになりました。」「これで、舜天王以来、700年に及ぶ王統、琉球王国は消え去りました。」

 けれども池宮城氏に、私は話しかけたくなります。日本を裏切り、清朝へ救援を求めた王朝の人々を、日本政府は一人も処刑していません。立場を逆にして、勝者が清朝だったら、開化党の人々の命はあったでしょうか。

 薄情な言い方かもしれませんが、300年間日本を支配した徳川幕府さえ日本では無くなっているのですから、自国の民すら救えなかった王朝が消滅したとして、それがどうだというのでしょう。

 池宮城氏を弁護するとしたら、琉球処分の後沖縄県となった政界では、県令以下多くの重要部署が、他府県の人間で占められたことです。この事実について氏が詳述していますので、氏の言い分を紹介し、沖縄人の恨みを伝えるべきなのかもしれませんが、省略します。

 なぜならその原因を作ったのは、沖縄王族と上流階層の人々でないかと、考えるからです。彼らは日本人であると言いながら、明治政府を裏切り、自分で墓穴を掘り信頼されなかったのですから、同情する余地がありません。

 明日は本題である「ひめゆり学徒隊」に入ります。ひめゆり学徒の叙述は、庶民の記録だと思っています。私たちは沖縄人を考える時、大韓民国の時と同様に、上流階層の人々と庶民を一緒にせず、区別して見る必要がありそうです。

 頑固党、開化党に分かれ、強いものになびき、自己の保身を優先した沖縄の上流階層の人々と、過酷な生活を歌と踊りで生き抜いた庶民を、一緒にしてはいけない気がします。本土でも同じですが、国の宝は名もない多くの庶民です。国民とも言います。

 あと何回で沖縄の話が終われるのか、氏の著書に導かれここまできました。継子扱いにされてきた、沖縄の同胞の話もあと少しです。

コメント (3)
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