ようやく私の受験勉強が一段落しました。昨日、筆記試験がおわりました。来月の下旬に技能試験がありますが、しばらくは通常ペースで生活できます。ブログも久しぶりに投稿します。今の私の気持ちは、暗雲立ち込めた中から明るい日差し見えるようなものです。
以下の文章と関係ありませんが、何年か前に撮影した背炙り峠からの写真です。
封人の家の先祖である「有路小三郎」が、背中炙り峠の楯に因んだ地名の「小三郎」であったであろうと推察する二つ目の理由は、財力から見たものです。封人の家は、堺田で代々、名主をしていたそうです。名主とは村の役人で、村の有力者がなるもので、沢山の土地を持っており、裕福な資金力があります。有路小三郎は元々、最上町の堺田に住んでいたわけではなくて、野辺沢領から移り住みました。当然、堺田に土地などを持っているわけではなくて、移り住んでから土地を手に入れたものでしょう。最初から土地を持っていなくても、資金力があれば土地は増えます。江戸時代の農民は、常に苦しい生活を強いられていましたので、借金をしても返済できずに土地を手放すことが通常だったようで、裕福な家に土地が集中しました。有路小三郎もそのように裕福だったと思われます。
野辺沢家の家臣で財力があったということは、小三郎は野辺沢家の有力な家臣だったのでしょう。また、背中炙り峠の楯の周囲に名前が残っているほどの侍は、楯のトップかそれに匹敵する重要な役に就いていたものと思われます。財力も十分だったでしょう。
ところで、楯岡高校の社会部が昭和46年に発行した「郷土Ⅱ」によると、畑沢に帰農した有路但馬の息子(楢昌)は、有路一族の氏神として熊野神社を建立し、さらにその息子(昌昂)は地蔵堂、曾孫の昌隆は三峰神社(万年堂)も建立しました。建立できる資金がありました。また、この代々の有路家当主は江戸時代を通じて長命だったようで、90歳近くまで長生きしていました。当時の一般の人々がどれくらいの寿命であったかの確かなデータはありませんが、50歳にも届かないほどだったはずです。それが有路家の方々は、江戸時代全般を通じて2倍以上もの長命でした。長命であるには、勿論のこととして頑健であったでしょうが、それにもましてゆとりある生活ができる財力があったと見ることができます。私たちが時代劇を見る限りでは、城勤めがなくなると途端に生活に困る状況に落ちぶれてしまうのですが、この有路家にはそのような気配がありません。下級武士だった浪人は苦しい生活になりますが、上級武士だった者たちはかなりの蓄えを持っていたようです。例えば、赤穂浪士の時代劇に出てくる大石内蔵助(家老)は、藩が取り潰されても京都の山科で裕福な生活をしていましたが、他の元藩士たちは様々に苦労して生活していた姿が描かれています。上と下では蓄えられていた財産には大きな差があったようです。これは野辺沢家の家臣たちの関係でも同じようなことがあったのでしょう。畑沢に帰農した有路家は、十分な蓄えを持っていました。同じように堺田の小三郎も十分な蓄えを持っていたようです。畑沢の有路も堺田の有路も同じ有路だからと言っても、決して同一の家柄と決めつけるものがあるわけではありませんが、そんなに裕福な有路の家系が多数あるわけではありません。家老だった有路はあくまでも有路但馬です。堺田の有路小三郎は、有路但馬とかなり近い関係にある者と考えられます。
廻りくどい説明になりました。次のようにまとめてみました。
堺田の有路小三郎は名主をやっているほどに裕福でした。一方、「背中炙り峠の楯」の小三郎は楯を守る要職に就いている上級の武士であったはずです。要職にある者ならば、十分な蓄えを持っていました。十分な蓄えを持っている者は、どこにでもいるものではなくて、十分な蓄えを持っている「小三郎」は、一人だったでしょう。とすると、堺田の有路小三郎は、「背中炙り峠の楯」を守っていた小三郎と結びつくのではないでしょうか。今回も強引に結び付けました。
ところで、県道29号線の背炙り峠は、長い長い交通止めが終わり、5月30日から通行可能となりました。