尾花沢市史編纂委員会によって編集され、昭和60年に尾花沢市が発行した「尾花沢市史資料第9輯 延沢軍記」から畑沢関連だけをつまみ食いする第2弾です。
延沢軍記の46ページの龍護寺本には、野辺沢満重(野辺沢城を築いた殿様)が領内の重要な地点に武将を配置したことが記されています。
依而奥刕境なれ者、武者附置へしと鎌田丹波に申付られ、添番として高橋勝之進申付られ、處々に
楯岡越には笹田甚五右衛門・古瀬正太、添番として同心五人、
小国越には切田作左衛門外三人、
行沢には石山鉄之助、
奥州越には菅野八左衛門、
二藤袋 元織田家臣細谷大學、
丹生堀内傳内、猶倉番として折原戸田の進外二十人
武功勝りし者共なり、‥‥
同じようなことを言おうとしているのでしょうが、表現が異なるものが84ぺージの片仮名本にも次のようにあります。
依而奥刕境ナレバ上野畑ニ武功ノ者附置ベシトシテ、鎌田丹波申付ラレケリ、添番トシテ高橋某申付ラレケリ、
ケ様ニ處々ノ手遣悉ク定メ、‥‥
龍護寺本には「上野畑」が抜けており、片仮名本には「楯岡越‥‥丹生‥」までがごっそり抜けていて、どちらの本も中途半端になっています。書き写す際に、故意なのか過失なのか分かりませんが、どちらも原本と異なる表現になったようです。
ここに出て来る姓(苗字)のうち、鎌田、高橋、古瀬、石山、菅野、細谷及び折原は、今でもかつて野辺沢領だった地域に残っています。笹田、切田及び堀内は残っていませんので、最上家改易の時に他家へ士官などするかして野辺沢領から離れたものでしょう。
さて畑沢に関係するのは、「楯岡越」の部分です。野辺沢城の時代には、野辺沢城から楯岡へ越えるのに、畑沢を通って背中炙り峠を越えていました。従いまして、「楯岡越」は直ぐに峠だけを意味するように見えますが、楯岡へ越える道筋を守る楯は「山楯」と「背中炙り峠の楯」の二つがありました。どちらも大きな楯ですから、それぞれに武将を配置していたものと思われます。それぞれに笹田甚五右衛門と古瀬正太の二人が配置されていると考えられます。楯岡越の外にも上野畑にも二人が配置されていますが、二人のうち高橋勝之進はあくまでも補助役である添番です。しかし、楯岡越の二人は同格と見られます。一つの楯に同格の者が二人配置されたとは思えません。二つの楯にそれぞれ一人ずつと考えるべきだと思います。
荒屋敷の大戸M氏は、
「当時、山楯を守っていた大将は荒屋敷に住んでいたが、どこかへ移ったそうだ」
「また、荒屋敷には一ケ所だけ石垣で築かれた屋敷の跡があり、その大将の屋敷があったかもしれない」
と話されていました。山楯の大将は笹田甚五右衛門だったのではないでしょうか。
笹田家に関する延沢軍記の記述もあります。73ページの塚田本です。
‥‥
笹田 先祖大阪に召集され、八郎冬朝戰敗走す、其末延沢に臣たり
‥‥
此処に書きたるは、頭立ツたるものにして、尚多くあれ共畧す、家族あり、名人あり、勇士あり、皆他家へ仕えず村々に住居、農業せしものなり
笹田なる人物は、最上家改易後すぐには他家へ仕官せずに残ったようですが、その後しばらくしてから他所へ移り住んだのでしょう。荒屋敷にはその配下の者たちが残ったものと思われます。もしも、笹田家がそのまま荒屋敷に残って明治を迎えていたとすれば、荒屋敷一帯の家々は、笹田姓を名乗っていたことでしょう。
一方、清水畑の古瀬K氏の家には背中炙り峠の楯に関するかなり専門的な「堀切(ほっきり)」の伝説が残っていました。また古瀬姓であることも考えると、楯岡越に配置されたという「古瀬正太」は、背中炙り峠の楯に配置されたと大将格と考えられます。現在、畑沢の古瀬姓は清水畑を含む上畑沢だけにあり、峠に近い場所です。