令和2年9月13日(日)、村山市大倉地区が主催する「Footpatht(フットパス)」のイベントに参加して、櫤山地区(中沢・新山・行川)を巡ってきました。ところで、皆さんはFootpathという言葉を御存じだったでしょうか。私はつい最近になってから知りました。元々、私は国語に疎く、ましてや英語となると手も足も出なくなります。しかし、インターネットのお世話になると、調べることができました。Footpathとは、「自然や景観を楽しみながら散策する小道」を意味するようです。それならば、私が畑沢へ往復するときに、背炙り峠の南側をじっくりと見てみたいと思っていた気持ちにぴったりの企画です。知人から教えて貰ったイベントです。
集合は8時半で、私は山形市内の自宅を7時ごろに出発しました。
今は新型コロナがまだ治まっていません。開会式の集合も距離を取っての整列です。募集定者は15名でしたので、それぐらいの参加者とさらに同じぐらいのスタッフがいるのですが、広い会場に点々と散らばっていますので、写真に入るのは極、わずかになってしまいました。背景の白い建物は元村山市立大倉小学校です。
なお、プライバシーを守るために、このブログに載せた人の顔は全て分からないように処理してあります。でも、今回は皆さんがマスクをしていましたので、そのままでも顔が分かりません。コミュニケーションには最悪の状況でもあります。
早速、進行です。集合場所の大倉市民センター駐車場から中沢地区に入ります。この道は畑沢へ向かう背炙り峠越えの県道です。峠の道は毎年のように通行止めとなり、今年は7月22日から11月30日まで通行止めです。この日、交通量が少なかったので安全です。交通止めが解除される12月に果たしてどれだけの日数が峠を通れるのでしょうか。
おっとと、話題が脇道に反れ出しましたので、戻ります。下の写真は中沢地区の入り口から集落の奥が写っています。正面に甑岳(しきだけ)があるのですが、雲に隠れて荘厳さが出ています。その右に尖っている山は「トンガリ山」、左手前のちょっとだけ写っているのは「オッパイ山」と呼ばれているそうです。非常に覚えやすい名前です。オッパイ山には昔、石切場があったそうで、村山市楯山と同じ石質(緑色凝灰岩)だそうです。個人的な見解ですが、トンガリ山は登りたくなる形です。参加者に話して見ましたが、賛同は全くありませんでした。
写真の奥の方には第一班、遅れて第二班です。個々人間の距離だけでなく、班と班の距離も離れています。第二班のスピードを遅くさせている犯人は、私だったのではなかったかと反省しています。
この地区一帯には石仏が沢山、見られます。集落の入り口にもありましたが、集落の中にも石仏が見えます。下の写真は、かなり古い庚申塔、巳待供養塔、十八夜供養塔で、一体の墓石のような石仏は分かりませんでした。巳待供養塔と十八夜は畑沢にも一体ありますが、珍しい石仏です。どこか畑沢と共通点があります。
道路の向かい側には、青面金剛象(しょうめんこんごうぞう)と湯殿山です。
湯殿山には慶応四年の年号が刻まれていました。明治元年でもあります。さらに八月の文字が見えました。会津城での悲劇があった月です。
青面金剛象は庚申講での守り神のようなもののようです。神様でも仏様でもなく、道教が原点のようです。庚申講は恐らく修験者が取り仕切ったのではないかと思います。中沢地区の修験者のことについても興味がありますが、残念ながら詳しいことは分からなくなっているそうです。青面金剛象の石材は凝灰岩ですから地元産かもしれませんが、楯山石の雰囲気がありません。
集落内には、地元産と思われる石材による石垣が多く見られます。これはオッパイ山の石と勝手に納得することにしました。
中沢地区にある阿弥陀堂です。甑岳に祀られていた阿弥陀佛を移して安置しているそうです。堂の周囲にも多くの石仏が安置されています。湯殿山、三界万霊塔(さんかいばんれいとう)、六地蔵(六面幢)、阿弥陀供養塔などがあります。全て別の場所に立っていたのですが、道路工事の際に移したそうです。
中沢地区の奥へ向かう途中、林の中で、スタッフが道路右側の栗の木を指さして叫びました。
「熊棚(くまだな)だ」
熊棚というものをテレビでは見て知っていましたが、実際に見るのは初めてでした。熊が木の上で餌を食べるための場所とするため、木の枝を折って樹上に重ねて棚を作るのだそうです。熊棚があるという事は、ここにも熊が出てきているのです。このスタッフは熊にも詳しいようです。一緒に山へ登ってみたい人です。もしかしたらハンターかなとも想像しました。
中沢地区の最上流部に到着しました。御不動さんの堂が階段の奥にあります。第一班が上にいますので、混雑を避けて暫し下で待っています。周りは杉林、薄暗くなっています。
長い階段の登って息が切れたころ、ようやく御堂に着きました。正面に「大石山」とあります。どのような意味か疑問に思っていたのですが、聞くのを忘れていました。中沢地区と言う小さな集落ですが、これだけのお堂を維持管理するのは大変だと思います。もっと広い範囲のひとによってで管理されているようです。別当は中沢地区の方が交代で担うそうです。
信仰の盛期には、一日に何度もお参りするための「籠堂(こもりどう)」が近くにあります。参詣者が沢山いたことを偲ばせます。その籠堂を撮影するのを逃していました。残念です。
不動明王は、目の病気を治す御利益があると言われて、目の病気を治そうとする信者が多かったそうです。不動明王は、目の色が黒、白、赤、青、黄の五種類がいるのだそうですので、それが「目の神様」的な扱いになっているのかもしれません。本来、不動明王と目の治療は関係ないと思うのですが、仏教に詳しい方に聞いてみたいことです。
御堂の左奥に様々な願い事を叶えてくれるという石仏がありました。この石仏の名前についての説明があったと思うのですが、私は前後左右に歩き回っていますので、大事なお話を聞き漏らしました。後で参加者が教えて下さいました。このイベントへの参加者は、私のような者の面倒も見てくれます。
「あの石仏の目や口に味噌を塗ると、塗った場所と同じところが良くなるそうだ」
確かにこの石仏の目や口の周りに何かがあります。その「何か」は味噌だったのです。
中沢地区を後にして、新山(にやま)地区へ向かいました。両地区の間は低い丘になっています。中沢地区から丘へ登り始めた辺りに石造物が見えました。これは私が7年前にここを通った時から気になっていました。墓のようにも見えますが、一般の墓とは大きく形が異なります。
すると有難いことに、ここで説明がありました。これらの石造物は墓石と見られ、この辺りに寺があったという根拠になっているそうです。ただ、その具体的な寺は、他の地区での主張と異なっていて、私にはどちらが正しいのかが分かりませんので、寺の名前は伏せておきます。スタッフが説明するときは、下の写真のように紙芝居風に用意してある絵を示して下さいました。木目細かい工夫がありました。このような絵を何箇所でも示されていました。この絵は大変、上手です。絵心ある方がこの地区におられるようです。この地区には多種多様な才能をお持ちの方がお住まいです。これも羨ましく、かつ有難く感じました。
新山地区に入ると、先ほどのトンガリ山が近くに見えました。見れば見るほど登りたくなります。細く長く続いている尾根に松が生えています。藪(やぶ)の状態ではなさそうなので、春先なら登れそうです
新山の奥に達しました。道路を右に曲がれば、甑岳への登山口に行けます。私たちは、真っすぐに鳥居を目指しました。
今から46年前にここを通って甑岳に登ったはずなのに記憶にありません。政治家のような言葉ですが、記憶力がないだけです。
薬師堂へ行く途中に白い建物がありました。東北大学のGPSシステムです。大地の伸縮や浮き沈みを観測しています。東日本大震災後に建てられたのかもしれません。神仏のように予言を行う現代の予言者でしょう。
薬師堂です。中沢の不動明王の御堂も立派でしたが、ここも立派なものです。やはり甑岳修験との関わりでしょうか。この御堂は甑岳から枝分かれしながら伸びている尾根の末端にあります。このような地形には、しばしば「村の城」と言われる楯跡が見つかることがあるのですが、御堂の裏を探索しましたが見つかりませんでした。
御堂から下って来た道で、T字路となっている正面が台地になっています。もしやと思って聞いてみましたら、新山地区の水道用の貯水槽だそうです。新山川を水源としている簡易水道かと思います。畑沢の簡易水道の水源は大平山から流れてきます。新山の水源は甑岳から流れてきます。どちらも美味しい水でしょう。
新山の集落でさらに数々の史跡を訪ね終えて、集落の入り口まで下ってきました。この日も新山を守っている石仏の一つがありました。畑沢出身の関嶺(寒嶺)和尚のお墓です。お墓と言っても、本当のお墓は尾花沢市丹生の巣林寺にあります。ここの「関嶺大和尚墓」は、新山村の入り口で悪霊が入ってくるのを防ぐための守り神として建てられたものです。ですから「お墓」ではなくて、「お守り」の意味があります。畑沢出身者が「お守り」として扱われていることは名誉なことです。延享二年一月十八日と刻まれています。関嶺(寒嶺)和尚は、この林崎地区だけでなく、袖崎地区でも評価が高い存在でした。
さらに行川(なめりがわ)地区の説明を受けました。ちょっと変わった地名は、修験者が水垢離(みずごり)をする場所だったことに因んでいるそうです。地域住民の先祖は伊勢の国から流れてきたそうです。「行」は、尾花沢市の行沢(なめりざわ)とも共通しています。また、「なめり」の発音は山形市内にある馬見ヶ崎川の上流の滑川(なめかわ)とも似ています。畑沢出身者としては珍しく感じるのですが、行川や滑川は、地名としても川の名前としても、全国的によく見られるようです。語源が一緒なのではと期待しています。
さて、全コースが終了しました。昼食は行川地区の「草木庵(くさきあん)」です。「人生の楽園」というテレビ番組でも取り上げられた有名な料理店です。4時間歩き疲れたお腹は、美味しい料理を瞬く間に食べきってしまいました。新型コロナがなければ、ゆっくりとお話をしながら味わうことができるのですが、飛沫感染を防ぐために黙ってひたすら食べなければなりませんでした。残念です。妻も行きたいと言っているお店ですので、後日、二人で行けたらと願っています。
櫤山地区は畑沢と縁が深く、何人かが嫁いでおられます。縁が深い割には交流があるようには見えません。もったいない話です。
当初、今回のイベントは甑岳に登るのかと勘違いをして、一か月前から「皆さんは歩き慣れているのに、私が運動不足状態では迷惑をかけるだろう」と事前に足腰の鍛錬をしていました。しかし、山登りではなかったので、「これは楽勝」と高(たか)を括(くく)っていました。ところが、「4時間の歩きっぱなし」は応えました。私は疲れてしまいました。やはり、日ごろの運動不足が出てきました。
こんな私のようにやっかいな参加者を先達(せんだつ)して下さったスタッフのお疲れは、さぞかしだったと思います。ありがとうございました。そして、またお邪魔しますで宜しくお願いします。