-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

慶長出羽合戦を勉強しにウィークデ―ハイキングへ

2021-11-08 19:18:24 | 歴史

 畑沢には「背中炙り峠の楯跡」が残っていますが、幾つもの謎があります。普通の楯跡と違い、理解し難いものがあるのです。

① 真ん中に道があって、敵が簡単に渡れる堀切(2か所)

② 猫や犬でも跨げるほどに小規模な堀切(3か所)

③ 緩斜面の登り坂が作られて敵が登りやすくしてある切岸(1か所)

④ 作るべきところに作られていない堀切(2か所)、曲輪(2か所)と切岸(2か所)

 この不思議な楯跡については、私が2年前に見学した山形市内の長谷堂城跡と最上義光歴史記念館のお陰で時代的な背景を理解することができました。そして、背中炙り峠の楯の造成が慶長出羽合戦の準備のために行われ、同時期に中止されたことがほぼ間違いないことも分かりました。歴史に詳しい方なら直ぐに分かったのでしょうが、歴史音痴の私にとっては「とんでもない」くらいの脳の働きでした。その頃しばしば頭の中がオーバーヒートして、湯気を立てていました。 

 秀吉の死後、家康が勢力を強めていましたが、上杉景勝が家康に対して反抗的な書状を送ったことを理由に家康は軍を北へ進めました。さらに上杉領の北側からも上杉の侵攻に抗するために、山形へ次表の奥州の武将たちを集めました。総勢1万1千を優に超える軍勢です。それもそのはずで、これらの武将たちの領土の合計は、軽く最上義光のそれを凌(しの)いでいます。この時、義光軍の軍勢の詳しいことは分かっていないそうですが、7千人とも言われています。近隣武将の勢力が如何に大事なものかが分かります。

片桐繁雄/訳編の「最上記」から兵力を拾い説明を加えました。

 山形へ集められた近隣の武将たち

 武将名     軍勢(人)     説  明
南部信濃守利直  5,000   現在の岩手県と青森県の一部を領していた。
秋田藤太郎    2,650   現在の秋田県北半分を領していた。
戸沢九郎五郎   2,200   当時は現在の秋田県の中央部を領していたが、最上家改易後に新庄藩を領した。
本堂孫七郎    400   現在の秋田県の旧由利郡一帯の主要な豪族たち。
六郷兵庫       300     〃
赤尾津孫次郎   200     〃
仁加保兵庫    185     〃
滝沢刑部     110     〃
内越孫太郎    60余    〃
岩谷右兵衛      40

 ところが石田三成が挙兵したと聞くと、家康は会津への進行を停止して引き返してしまいました。すると伊達政宗軍も既に上杉領の二つの城を攻め落とすなどして勝ち戦を進めていましたが、すぐさま上杉と和睦を結んでしまいました。さらに家康の求めで最上義光の下に集結していた近隣の武将たちも自国領へ引き上げたので、義光軍勢は兵力が半分以下になったはずです。上杉領は120万石、対する最上領は20万石で、しかも最上領は西の庄内地区と南の会津・置賜地区の上杉領から挟まれています。上杉軍と言えば戦国時代最強と言われている強敵で、尋常な戦法では太刀打ちできません。山形に集められていた近隣の武将がいなくなって、山形はかなり手薄となってしまいました。義光は一部の城を除いて大部分を山形へ集結する戦略を選びました。かなり慌てて集められたものと思います。背中炙り峠の楯では工事を途中で放棄してまでも、野邊沢軍は山形へ馳せ参じました。それが楯跡に現われています。

 実は最上軍が何時、山形へ集結したのかが分かりませんでした。史料を見付つけることができなかったのです。しかし、畑沢を再発見(改訂版)を執筆している中で、近隣の武将たちの動向と軍勢を調べて、上述の結論を得ました。奥州の武将が集結していたころは、山形に野邊沢軍などが集結する余裕もなかったでしょうし、必要もなかったでしょう。また、最上領内各地の城で上杉軍を待ち受けて、領民を守ることは領主としての大きな役割があったはずです。そのために、野邊沢又五郎光昌も率先して背中炙り峠の楯を造成して備(そな)えていたのでしょう。楯跡の近くに残っている畑沢の沼沢に残る「又五郎」の地名も楯造成中に光昌が駐屯していた場所かもしれません。

 ところが奥州の武将がそれぞれの領土へ引き返したために、領民のことを思うと後ろ髪惹かれる思いながらも光昌は山形へ向かいました。やがて上杉軍が最上領内に侵攻し、戦いの火蓋が切られました。

 慶長出羽合戦で激しい戦いがあった畑谷城跡と長谷堂城跡は、友達の案内で見せてもらいましたので貧弱ながらも私なりの想像をしました。ところが上杉軍が撤退した時の経路を見せてもらったことがありませんでした。戦いと言うものは何時でも悲惨です。ましてや撤退戦となると、一層の悲惨さが想像されます。9月15日に関ヶ原の戦いで石田三成が率いる西軍が敗れ、その知らせが約半月後の10月1日に上杉軍を率いていた直江兼続に届くと、すぐさま撤退が開始されました。

 今年、11月5日にこの撤退経路沿いを「ウィークデ―ハイキング」するイベントが山形市主催で行われました。山形市長谷堂から山辺町にある県民の森までの約10㎞の行程です。

 下の写真は最上軍に討たれた上杉軍の上泉主水の供養塔です。主水塚(もんどづか)と書かれています。この人物は剣豪として有名だそうですが、「上泉泰綱書状」を書いたことでも有名です。

 写真の中の人物については、プライバシー保護のためにすべて顔を隠しました。

 

 主水塚は二つあります。下の写真は、より上杉軍陣地に近い場所にある塚です。

 

 上杉軍の直江兼続の本陣跡です。今は東南部が墓地になっています。

 

 撤退中に最も激しい戦いがあった場所だそうです。下の写真の奥に見えている右の山がオカクラ山(お神楽山の意味)とその左の女子林(めごばやし)がそうでした。今は高い木々に覆われていますが、恐らく当時は薪炭材として刈り込まれていたことでしょう。オカクラ山には、獅子頭に似た大岩があるそうです。畑沢の大平山(真木山と桂葉の間)の頂上に近い所にも獅子岩があります。オカクラ岩も獅子岩も似たような意味です。

 写真の手前にある集落は、七ツ松です。興味深い地名です。

 

 この周辺には、高度を上げながらぽつぽつと平坦な地形があってそこに集落があります。ここは上平です。斜面に建っている家の周囲は見事な石垣が組まれていて、まるで城の石垣のように本格的なものです。この一帯は白鷹山火山で噴出した火山岩で覆われていますので、固い石垣の石材に恵まれています。石材は石垣だけでなく、石仏にも使われています。下の写真は地元産の石材に素人の手によって刻まれたと思われる「南無阿弥陀仏」です。私はこの素朴な石仏が好きです。

 約10㎞の大歩行を終えて、再び出発点に戻りました。さすがに帰りはマイクロバスに載せて貰いました。閉会式が長谷堂城跡公園で行われました。参加者は35人で、ボランティアガイドは7人見えます。外に山形市職員と県職員がいます。ガイドさんが多いことに感心しました。参加者も結構な知識をお持ちの方がおられて、その方からも教えて貰いました。「参加者を知る」のもイベントへ参加の大きな目的です。

 畑沢でもこのような催しができればと思っています。背中炙峠の楯跡、上畑沢の楯跡、山楯、おしぇど山の楯跡などを見てほしいと思うものが沢山あるのですが、盛り上がりがありません。

 さて、私がイベントでどれだけ認識を改めることができたかが問題です。しかし私は「脳内があらたまる]には時間がかかります。そのうちに「ジワッ」と効果があるかもしれません。


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