令和3年8月5日(金)午後4時過ぎに一仕事を終え、背炙り峠を目指して畑沢を南下していました。清水畑に差し掛かった時に、ふと、左に白っぽい見慣れない墓石のようなものが見えました。これまで何度もここを通っていますが、まったく見たことがありません。少し先に進んでから停車して、そのまま後進しました。明らかに墓石のような雰囲気です。
近くによって確認しました。墓石ではなくて、庚申塔でした。
畑沢の石仏については、もう8年も前から調べてきました。勿論、私などよりもより詳しい方々の調査結果なども参考にしてきました。さらに畑沢の方々の御協力と御指導も賜ったお陰で、石仏をより多く調べることができました。それでもこの庚申塔の存在を知ることができませんでした。
帰宅してからGoogleのストリート・ビューで確認しました。現在、掲載されているものは2014年7月に撮影されたようで、7年も前の写真です。残念ながら、このブログで勝手にGoogleの写真を掲載することはできませんが、明らかに形よく剪定されたキャラの木だけが写っています。つまり、これまではずっとキャラで隠れていたことになります。そのために、この庚申塔は県道からよく見える位置にありながらも、誰も気付かなかったようです。「誰も」には敷地の所有者(〇◎)も含まれています。
この庚申塔がある敷地の所有者は、現在はここに住んでいませんので、隣家の□△さんに電話でお聞きしました。
「〇◎さんのキャラの木の脇に、庚申塔がありました。もしかしたら、私のためにキャラを剪定して下さったのですか」
「あれは、私の田んぼの周囲を草刈りした時に、△▢〇◎の所が草が生い茂っていたので、ついでに草刈したものだ。そしたら庚申塔が出てきた」
つまり私のために庚申塔が見えるようにして下さったことではないとのことでした。しかし、□△さんは、これまで背中炙り峠の楯跡に因む「ほっきり(堀切)伝説」、同氏敷地の庚申塔、他人太屋敷の墓標について教えて下さり、さらに上畑沢の地蔵堂の古い写真を御提供してくださいました。そういう方なのです。やはり私のために、庚申塔を覆い隠していたキャラの木を選定して下さったものと考えることにしました。
庚申塔の側面には年月日が刻まれていまた。
「安永五丙申天」「八月二十一日」と刻まれています。西暦1776年8月21日です。天明の大飢饉(1783~1787年)の前で、比較的、暮らしやすい気候の時代だったかと思います。ただ不思議なことには、庚申の年ではありませんし、月日の干支も戊寅で庚申ではありません。そういう事を気にしないで建てたのでしょうか。気にしないところが私と似ています。ところで設立者を確認できませんでした。残念。
庚申塔の上部には日天と月天のマークが刻まれています。日天と月天は神道、庚申塔は道教に由来するとか言われています。これも神仏混淆と言うのでしょうか。畑沢の庚申塔では初めての日天と月天です。
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